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頓阿法師詠3



頓阿は若い時から西行にあこがれていた。

西行住み侍りける相臨時といふ所に、庵むすびて思ひつづけ侍し

跡しめて見ぬ代の春を忍ぶかな
   その二月(きさらぎ)の花下かげ

西行が住んでいた所に庵をむすび、ちょうど二月の花の下で、西行の時代の春を忍んだことだ。
あの西行の辞世の歌「願はくは花の下にて春死なんその二月の望月のころ」を、読む人は必ず思いだし、頓阿もまた西行と同じ願いでいるということを訴えている。

しかしまた頓阿はまた西行や兼好にくらべて、はるかに〈真面目な〉僧であり歌人であったようだ。

正和のころ、二条入道大納言家、春日社に奉納せられし唯識論の歌に、実摂ニアラザルガ故ニ空花等ノ如シ

いつよりかむなしき空に散る花の
   あだなる色にまよひそめけん


わたしたちは、いったいいつより虚しく空に散っている花、そのような諸法に迷ってしまったのだろう。

   祝の心を

敷島のやまとことの葉むかしより
   つもるは君が千世のかずかも


昔より積もってきた和歌の言の葉の数は、わが君の長寿の齢の数のように限りないものだ。

頓阿という僧は、また吉田兼好と共に二条為世門の四天王として、和歌の道に生きた人として有名である。1289~1372というから、ずいぶん長生きをした人だ。だから誰よりも南北朝の動乱を長く見続けた人だ。頓阿の心の中では、足利尊氏と後醍醐天皇とは無限の言の葉のなかで、永遠の蜜月を送っていたに違いない。

         *

参考にした『頓阿法師詠』(岩波版)の解説にはこうある。

俗名は二階堂定宗、出家して頓阿と号した。正応二年(1289)~応安五年(1372)、亨年八十四。当時、浄弁・兼好・慶運らとともに、二条為世門の和歌四天王と称された。公武僧との和歌を介しての交誼も広く、『新拾遺集』の撰集作業にも参与するなど、二条派歌壇の重鎮的な存在であった。


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