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『勝鬘経義疏』5

しかし、『勝鬘経義疏』についてどういう風に語ればいいのだろう。小生にはこの混沌とした全体を上手くまとめて語れる能力はない、ということがはっきりしている。しかしここで最も重要なキイワードだと思われる〈如来蔵〉なるもにちょっとだけ触れてみよう。

 勝鬘夫人はこの世において初めて仏の声を聞くことができた、という。聞くとは理解するということであるが、ことさら聞くという言葉をつかうのは、精神の態度が大事なのであって、人は聞くためには己をむなしくするのみならず、聞こうとしなければならない。

 すると仏が現れる。夫人は仏を讃え、仏の救いを乞う。仏の言葉に夫人は理解を深めてゆく。最終的に〈一乗〉に目覚める。〈小乗〉は、ただ自己のさとりだけを求めて、他者を教化するということを避けるが、〈大乗〉は、自己がさとりに至ることを求めず、人々を悟りへ渡して救うことを第一とする。さらに〈一乗〉はさとりの諸段階を通り越してしまう。

 するとそこに如来蔵という理念が表れる。如来蔵は本来、深遠で超越的な清浄そのもので、われわれの認識の対象ではない、と思われるのであるが、実はわれわれの煩悩の中に隠れて存在している。煩悩の外にあるのではない。

 そして、ここにおいては煩悩を滅するとは、おそらく小乗で説かれた、自力のよる煩悩の壊滅、つまり有から無へという相対的なもの、時間性においてあるもの、ではなく、そもそも始まりも終わりもない、時間性を超えたものだ。

 もしこのとこを疑わないならば、如来蔵が露わになった姿の法身を見ることも確信できるのだ。法身とは真理を身体とする仏のことである。それは形はないが目に見えるものである。

 如来蔵とは、過去・現在・未来を超えたもので、生命そのもの、この宇宙における人間種の根底を流れる生命の源泉とでもいうべきものだ。それは、個や我あるいはその生死、輪廻を超えていながら、そこにおいてある。

 またこういう言い方もできる。(この世的な)生死は人々の心の中でさとりの原因となりうる。その結果、如来蔵の潜在的存在に目覚めるが、その目覚めは、じつは如来蔵によるものではないか。

 人々はなにゆえ、この世でこの時間において生きながらえているのか。なぜ苦を厭い、楽を求めるのか。それは如来像の道理ゆえである。時間は流れる。では何に対して流れるのか。

 草木には迷いがなく、人間は迷うものだ。このことは人間は悟りへの道を歩むという本性があるということだ。これを根底で支えているものが如来蔵なのだ。だから如来蔵は人間の存在価値を保証している。

 では、どうして如来蔵は清浄なものであって、迷い穢れの煩悩の中にあっても、生死に染まることがない、ということが分かるのか。なぜなら煩悩は数限りなくあり、ときには非常に巧妙であって、これが善これが悪と分別しがたいことがあるではないか。

 それは事象をどのように見るかによって異なってくる。個別的実体として捉えるか、実体はなく生滅変化があるのみであるとするかによって、見え方が違ってくる。こんなに微妙な心の世界をわれわれは決定することができるであろうか。できない。われわれは仏性としての如来蔵を信じるしかない。

 理解力があるとは、究極まで疑うことができるということであり、だからそのような人は仏の信仰に進むことができるのだ・・・

  

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コメント

理解力は・・・

Oh,Hell brauさん,

Ich habe nicht viele Einsicht. Aber, sowieso, Ich mochte etwas zu denken haben; etwas, das nicht von diseser Welt.

変なドイツ語ごめん。

理解力とは

究極まで疑うことができる力なんですねっ、

うたのすけ殿のすばらしい洞察力はどこからくるのでしょう。。。

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