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『悲しき熱帯』

 これも死ぬまでに一度読んでみたいと思っていた本のひとつである。この本を読んで先ず感じたのは、二十世紀の洗練されたフランス人の人類学者の芳しい香である。それはブルボン朝の豪奢とルソーの怨恨と革命とボードレールをベースにした香りである。

 したがってこの本はこう始まる。
「私は旅と探検家がきらいだ。それなのに、いま私はこうして、私の海外調査のことを語ろうとしている。だが、そう心をきめるまでに、どれだけの時間がかかったことか! 私が最後にブラジルを去ってから15年が過ぎたが、そのあいだじゅう。私はいくどもこの本を書いてみようと思いたった。そのたびに。一種の羞恥と嫌悪が私をおしとどめた。いったい、なんだというのだ? あのたくさんのあじけない些事や、とるにたりない出来事を、こまごまとものがたる必要があるのだろうか。」

しかるに、われわれ一般読者が期待しているのは、些事や出来事からなる物語であって、小難しい人類学的理論ではない。そして著者は、そのことを十分心得ていて、こまごまとした些事を余すところなく語っているが、彼の育ちのよさを思わせる感覚の鋭敏が読者を退屈から救ってくれる。

例えばこんなくだりがある。
「ブラジルは、私の想像力のなかで、奇妙な構築物をうしろにかくしている曲がりくねったヤシの束のようなものとして描かれていた。そしてその全体は、香炉の匂いのなかにひたっているのであるが、この嗅覚の要素は、「ブラジル」と「グレジェ(ぱちぱち燃える)」という二つのことばから無意識に引き出された音の類似によって、ひそかにすべりこんだもののように思われる。この音の類似は、その後ブラジルについて多くの経験をしたにもかかわらず。今日でもなおブラジルを考えるときには、まずこげたにおいを私が思い浮かべる理由を説明してくれる。」

あるいは、
「大アンティル諸島というかなり特殊な背景においてではあったが、アメリカの町に共通してみられるあの洋装を、私がまず認めたのも、プエルト・リコにおいてであった。すなわち、どこへ行っても、建物が軽そうで、効果だの、通行人の関心をひくことばかりねらっている点で、いつまでも催されている万国博覧会かなにかに似ていた。」

あるいは、
「16世紀の人間の意識には、知識以上に本質的なある要素が、科学的な考察に不可欠の資質が欠けていた。この時代の人々は、世界のスタイルということに敏感ではなかった。こんにちでも、たとえば美術において、イタリア絵画の、あるいは黒人彫刻の、なにがしかの外面的な特徴はわかっても。意味を持ったその全体の調和のみえない粗野な人は、ほんもののボティチェリの絵と贋作とを、また中央アフリカのファン族の小像と市場で売られている安物とを、見分けることができないであろう。」

あるいは、
「この巨大さの印象は、アメリカに特有のものである。・・・これらの街路は街路であり、山は山であり、川は川でしかない。では、あの故郷喪失の感情はどこから来るのだろうか。それはただ、人間の大きさと物の大きさとの間の関係が、もはや共通の尺度がなくなるほどにひきのばされているということに由来している。」

まあ、いくらでも引用できるが、止めておく。

さて、著者はサンパウロからアマゾンの奥地へと進み、幾つかの未開の部族に接する。そこで幾つかの発見がある。そのなかで小生がとても面白く感じたところを紹介しよう。

カドゥヴェオ族というのがいる。著者が接したときにはすでに彼らは外来者と取引をすることに慣れていたのであるが。しかしだからといって彼らの伝統的な制度が無くなっているわけではない。この部族においては男が彫刻をし、女が絵を描く。そしてこの絵のデザインの際立った特徴は紋章学に通じる著者の心を捉えた。

とくに、女性の顔のマニアックな装飾、「繊細な幾何学モティーフとたがいちがいになった非対称形のアラビア模様の網」は、何のために、どこからその着想を得たのであろう。カドゥヴォエ族の女たちが迷うことなく描いていく、縦横の線、斜めの線、菱形、蔓草状、渦巻き、波状、それらの結びつきの多くのパターン。いろいろ過去の報告などを参考にして、著者はそれが他でもない独自の理由に基づくものだということに気が付いた。

簡単に言えば、この〈芸術〉には、社会学的機能がある。つまり個人に人間としての尊厳を与える。それからカーストつまり身分の序列を表している。この世襲の身分を保証するにはどうするか。異なる階級の者が結婚できないならば、半族間の結婚を義務化する。階級の非対称性と半族の対称性という矛盾の解決として女たちは夢を見はじめた。これがデザインなる。

この〈芸術〉は、「社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現しうるであろう制度を象徴的に表す方法を、飽くことのない情熱で探し求める一つの社会の幻想として説明すべきであろう。彼女たちは化粧で夢を囲むのだ」。

それから、この本の書名『悲しき熱帯』の理由となったナンビクワラ族について少し触れておかねばならない。著者はこの部族の生活につぶさに触れることによって、社会学上の新しい発見をなしたかもしれない。しかし、小生にとって面白いのは、著者がこの部族のあり方に非常に感動している点であり、その感動は小生にも伝わって、人間とは何かという疑問符をつきつけられるのである。

ナンビクワラ族の住んでいる地域は、とげとげの灌木が生えているだけの乾燥した貧しい土地で、一年の半分は雨が多い季節で、彼らは木の枝やヤシの葉で粗末な小屋を立てて定住する。そしてイモ、豆、トウモロコシなどを栽培する。これは男の仕事だ。この季の初めの神聖な儀式は、男たちが竹で作った笛を吹くのであるが、それは女がいないところでするという。
後の半分の乾いた季節になると、彼らはその小屋を放棄して、遊動の生活に入る。10人とか20人とかくらいの集団に分かれて、それぞれの全財産(ひょうたんの器、石、竹、紐、樹脂、貝殻、動物の歯、爪、骨など)を割いた竹でできた籠に入れて移動する。その間は彼らは採集生活にはいる。草木の実、根、ウジ虫、クモ、イナゴ、ネズミ類、蛇、トカゲ、蜂蜜など、食べられるものなら何でも採る。これは女の仕事だ。時には、強い日差しや雨を避けるためにヤシの葉を立てる。男たちは弓矢をもっているが、いい獲物はめったにない。採集物がとても少ない土地であるゆえに、少人数のグループに分かれて遊動した方が経済効率がよいという。

彼らは衣類はなく裸である。睡眠は裸のまま地面に寝る。彼らは砂の中で転げ回ることを好み、体は砂でまぶされている。乾季の夜は寒く、焚火の近くで、あるいは体を寄せあって寝る。昼間は水浴び、料理(イモや実を煮る)木の実や貝殻で飾りをつくる。ぶらついたり、頭の虱を獲りあったり、ワイ談や冗談を言い合ってよく笑い、いつも陽気だ。犬、鳥、猿を愛玩用として飼っている。夜が近づくと当番が薪拾い。そして家族ごとの焚火。おしゃべり、じゃれあい、夫婦は抱き合う。子供は一人か二人。それ以上はこの環境と移動生活には邪魔になる。

愛し合う二人は、人前でも抱き合って戯れる。しかし、この部族の場合、それが必ずしも性交というわけではない。それはむしろ遊戯的、感情的なたのしみであるらしい。彼らは全裸で暮らしているが、だからといって羞恥を知らないのではない。ただその範囲がわれわれとは異なるのだ。

それぞれの群れには首長がいる。首長は群れの方針(遊動の時期や方向の決定、周囲の群れとの関係など)について決定権と責任を負わねばならない。その代り、彼は複数の妻をもつという特権が与えられる。多妻とはいえど、家庭生活の単位としての本妻は一人であって、この本妻だけが、日常のこまごまとしたことをする。他の女たちは、いわば情婦、遊び相手なのだが、狩や偵察のときは首長について行く。

首長と成員のあいだには、それゆえ同意と交換とが成りたっているはずだ。首長は群れの成員にたいして気前がよくなければならない。仕事も多い、うまくやらねばならない、責任もある。だから、かの特権があるとはいえ、すすんで首長になりたがるものは少ない。しかし現実には必ず首長がいる。そのことから著者は発見する、元々こういった傾向の(公の責任という負担そのものを報酬と感じる)者が必ずいる、どんな〈社会〉も、そういった個人の差異を利用すると。

ともあれ、結論として、次の著者の言葉を引用しておこう。
「初めて荒野でインディアン(原住民)とともに野営する外来者は、これほど完全にすべてを奪われた人間の光景を前にして、苦悩とあわれみにとらえられるのを感じる。この人間たちは、なにか恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上におしつぶされたようである。消えやすい火のそばで、裸でふるえているのだ。外来者は、手探りで、茂みの中を歩き回る。焚火の光の暑い反映でそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。
しかし、このみじめさも、ささやきや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎ去った結合の思い出にひたるかのように抱きしめあう。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らのすべてのうちに、無限の優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、動物のそれのような満足を、人は感じとるのである。そして、これらさまざまな感情を集めた人間の優しさの、最も感動的で、最も真実な表現であるなにかを、人は感じとるのである。」

   長くなってすいません


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コメント

化粧

はい、淡青さん。こんばんは。こちらは2日前大雪でした。

吉行淳之介がこの作品に言及しているのですか。彼のことはあまり知らないけれど、へえ?って感じです。

それにしても、化粧は宗教の一種だと思います。淡青さんもきっと化粧をされていると思いますよ、ほどよくシンプルに。

想像する

Guten Tag!うたのすけ殿、

「悲しき熱帯」は吉行淳之介の本で知り、読んでみたいと思いながら忘れていた書物でした。

ここで思い出させていただき、うたのすけさんの書評もきけて現在を生きる冥利を味わっています。

ー彼女たちは化粧で夢を囲むのだー、
このことを面白く考えています、今まで化粧をおざなりにしてきた淡青だからかもしれません。

これからもうたのすけさんの知性を楽しみにしています!

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