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山背大兄王

山背大兄王(やましろのおおえおう)は聖徳太子の息子さんです。推古天皇の後継者の一人として目されていましたが、蘇我氏の擁立した田村皇子が皇位に着きます(舒明天皇)。

 その12年後、舒明天皇が崩御されますと、三人の有力な後継者候補がありました。山背大兄王と古人皇子(ふるひとのみこ)と、それから大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)でした。

 蘇我蝦夷・入鹿親子は、山背大兄王を決して皇位につけたくない、中大兄皇子もできればつけたくない、蝦夷の甥にあたる古人皇子をつけさせたいが、反発も大きそうだし、中大兄皇子を差し置いて皇位につけるのは難しそうだと考え、とりあえず、舒明天皇の皇后に天皇の位を授けた(皇極天皇)。

 この御代に至って、蝦夷・入鹿の専横がめだってきます。あまりの振る舞いに、あるとき舂米(つきしね)女王が「天皇でないお前らが、どうして勝手に政を行おうとするのだ」と注意するのです。この舂米女王は聖徳太子の娘さんで、山背大兄王の異母妹でもあり、奥さんでもあるのです。

 聖徳太子には4人の妻がありました。その中で、太子がもっとも寵愛し、多くの子をなしたのが、膳(かしわで)さんという比較的身分の低い出の妻でした。この膳さんが太子の最後まで、まあ生活を共にしたのです。おそらく、あの理想家の太子の心にもっとも適った女性だったのではないでしょうか。そして、舂米女王はこの膳夫人の長女なのです。

 どうも彼女は、幼いころから父の理念を受け継ぎ、自分がいわば宗教的太子一家を支えていかねばという思いが強かったのではないでしょうか。そして夫の山背大兄王は、やはり父の影響を受けすぎと言えるほどで、むしろこちらは仏教的無抵抗を徹底させる人だったのです。性格の強い彼女が蘇我氏の横暴をたしなめたのでした。

 皇極二年10月、突然「蘇我入鹿はこっそり策謀して、山背大兄王一家を滅ぼして、古人皇子を天皇にしようとした。そのころ、こんなわらべ歌が流行った、〈岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁〉 蘇我臣入鹿は、山背大兄王一族の威光が天下に行き渡ってるのが気に食わなくて、自分が君主になろうとした。」という記述が『日本書紀』に出てきます。

 この山背大兄王一族というのは、上宮王達(かみつみやのおうたち)と書いてあるのですが、すなわち斑鳩宮(今の法隆寺東院あたり)に住んでいる人たち、すなわち聖徳太子一族なのですね。雰囲気としては、どうもこのころ、聖徳太子は伝説化されつつ、かつその教えは一般の人々に行き渡っていき、いっぽう現実の政治家はそれを理想論として避ける傾向にあったのではないでしょうか。

 そして、山城王一族は、頑なに太子の理想を守る純潔でややもすれば排他的な秘密結社のように、飛鳥中央政府からは見られていたような気がします。この一族の中心人物が山背大兄王だった。蘇我入鹿らは、この不気味で目ざわりな一族をまず滅ぼすことにしたのです。

 入鹿は、手下に命じて斑鳩宮を襲わせる。山背勢の従者たちは果敢に戦った、その間に山背大兄王は妻や子供らと共に生駒山に逃げる。敵は斑鳩宮を焼き、退却する。大兄王らは数日間、山の中でひもじい思いをして過ごす。このとき、側近が主張するには、「伏見や東部方面には仲間がたくさんいます。今すぐ馬で出かけ、彼らを結集し、軍を立てて戦えば、入鹿軍に勝てるはずです」と。

 ところが、山背大兄王はこう答えたのです、「お前の言う通りであろう。しかし、私の身を守るために、多くの民百姓を使役するのは我が意ではない。もし、戦いに勝ったとしても、そのために父母を殺されたと、後に言われるのがイヤである。戦うより、わが一身を捨てて国の平安をきたせば、それも立派な男の道ではないか」と。

 それで結局、山背大兄王一族は山から斑鳩に帰還して、その寺で全員(一説に23人)自殺するのです。これでもって、聖徳太子の死後22年目にして、太子一族は消滅します。『書紀』は、こう続けています。

 〈このとき、五色の幡と蓋(きぬがさ)、妙なる音楽を伴った天女らの舞が、空から現れて寺に降りてきた。人々はそれを見て感動した。しかし、入鹿が見るとただの黒雲になってしまった。〉磔のイエスが息を引きとったとき天幕が裂けたというのとはだいぶん趣が違いますね。

 入鹿のお父さんの蝦夷が、これを知って、「入鹿の奴、愚かなことをしやがって、そのうちにおまえらも滅ぼされることになる」と言いました。

 翻って思うに、山背大兄王はあまりに仏教的理想主義者であったのですね。戦うことより死を選びました。しかし、いろいろ疑問が残りますね。死ぬ前にどうして一族を引き連れて山を彷徨し、下山して皆を道連れにしたのだろうか。早く一人で死ねばよかったではないか。また、その前に、どうして入鹿たちに、正々堂々と己の立場を主張しなかったのか。大義はこちらにあるはずではなかったのか。父聖徳太子の威光もまだ残っていたはずで、側近が奨めたように、周辺の仲間を結集すれば、戦いにも勝てたはずではないか。

山背大兄王一族の消滅は、聖徳太子自身が蒔いた種から生じたように思われます。時代を超越した人。あれほどの仏教帰依者、あれほどの理想家、あれほどの行動家から思想家への純化。その遺産を、たとえ優秀であったとしても普通人であった息子が背負わされてしまった運命を思うのです。彼は最後まで迷った、だからこそ、どの道を選ぶにせよ潔さがなかったのだと思います。

政治に善悪はないと言われますが、にもかかわらずわれわれは善悪を気にせずに生きてゆくことができません。それをいいことに、現実政治ではそういう人間の性質がたくみに利用される。政治に利用された瞬間、それは善悪ではなくてプロパガンダに堕しますね。

しかし宗教は個人の心の善悪を深く追求します。ところで誰か答えてほしい、自分の感情に忠実なることは、たとえば、家族を殺した者にたいして怒り、復讐することは善でしょうか悪でしょうか。さあ、これを考え出したら、人は世界宗教の入口に立っている、そして聖徳太子は、例えばその疑問から出発したのです。そして、その遠い帰結は悲惨な一族全滅でした。





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コメント

Re: 紙幣の聖徳太子

淡青さん。コメントありがとう。
聖徳太子は日本で最初の天才・偉人だと思います。そんな「どエライ人」はじつはいなかったという大先生もいらっしゃいますが、たぶん大先生自身を根拠にそう言っているのだと思います。
小生、ただいま『日本書紀』をぼちぼち読んでいて、このあたりの読後感みたいなものを書いたまでです。聖徳太子あたりの文章は『書記』の中でとくに面白く読めるところです。

紙幣の聖徳太子

なるほどこれでなぜに聖徳太子が紙幣に印刷されたのかガッテン!?、笑
うたのすけ殿の壮大な知識に感服しております。

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