音楽の力
小生にとって音楽とは神である。自分の力ではどう抗いようもない力で迫ってくる。いつ頃からか、朝起きると決まって、頭の中に音楽が流れている。ジャンルはいろいろだが、比較的多いのは、子供のとき憶えた歌が多い。「はーるの、うらあらあの、すうみいだーがわー」とか「うーのはなーの、におう垣根に」とか、これらはいま春だからというわけはない。冬真っ最中でも「うーみは、ひろいーな、おおきーな」なんてこともよくある。子供の時のテレビ番組の「ホームラン教室」や「怪傑ハリマオ」、また「東京音頭」みたいなものも突然やってくる。映画音楽や、朝だのにジルベルトの「Quiet night of quiet stars」や、バルトークの「夜の音楽」やドビュッシーの「月の光」もやってくる。ワグナーの楽劇やらモーツアルトの白鳥の歌・・・、その他なんでも浮かんでくる。幸いそのうち消えていって、一日中それに悩まされることはめったにないが。今朝は、『椿姫』のアリアとセルジオメンデスの『ノールウェーの森』が交代でちらちら流れている。
子供の時、体で覚えたものは死ぬまで忘れないものだとよく言われる。老人ホームにいる義母なども、さっき言ったことも忘れるのに、女学校時代に憶えた百人一首はいつでもすらすら出てくる。意味は解っているのかどうかわからないけれど。
どちらかというと、わが生活は、とくに若いころは、行きあたりばったりの、つまりその時やりたいことを欲望に負けてすぐする傾向があったけれど、あるころから、おおよ20~30年くらい前か(えらく漠然としているね)、生活も忙しくなってきたためか、聴きだしたら止まりにくい音楽に関して、小生は計画を立てた。
それは、できるだけ音楽を聴かないこと。とくに好きな音楽は、偶然耳にしたとき以外は、あえて聴こうとしないこと。それらは、いつか自分に死期が迫ってきたときに、一度だけ真剣に聴こうと決めたのだった。というのは、いつでも何度でも聴ける状態だと、つい真剣に聴かないこともあるし、欲望は切りなく、そのとき飽きるまで何度でも聴いてしまう。だらしなく快感に浸る。こういった時間がもったいないと考えるようになったからだ。
その上もう一つの理由がある。それは、自然の音、風の音や川の流れ、鳥の声などが、じつに心地よく聞こえ、音楽を聴くように、これに聴き入ってしまうことがよくあるようになったからだ。ときには、鳥の声さえ聴いておれば、べつに音楽は要らないとさえ感じることがある。
死ぬまでに、あと一度だけ味わおうと思って、じっと我慢して残しておいた音楽は沢山ある。いま数日に一曲くらいのペースでそれを聴いている。これが最後だと思うと、大いに感動し、あっこんな面があったのだ、と新しい発見もすることがある。逆になんだこんなのだったのか、聴かずに永遠によい音楽だと思い込んでいたらよかった、と思うこともある。
…しかし、何でも予定通り、そううまくいくとは限らない。やっぱりいかん。これをもう一度聴きたくなる。止めたはずの煙草を試しに吸ってみる人のように、欲望はどこからともなく復活する。
昨夜聴いたシューマンの三番目の交響曲だが、参った。何十年ぶりで耳にしたのだが、こんなに豊富な音楽だったと思ったことがあろうか。Youtubeで聴いたにすぎない。Dudamelという人の指揮だが、じつにシューマンの交響曲が音楽になっているのだ。こんなに纏まった、しかもこんなに豊富な思想をもった音楽に。
音楽の力の前では小生は無力だ。「死ぬまで一曲一回」を守って、もう聴かないことができるだろうか、やはり誘惑に負けてもう一度聴いてしまうか、ここは考え所だ。体中から汗が吹き出る。


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子供の時、体で覚えたものは死ぬまで忘れないものだとよく言われる。老人ホームにいる義母なども、さっき言ったことも忘れるのに、女学校時代に憶えた百人一首はいつでもすらすら出てくる。意味は解っているのかどうかわからないけれど。
どちらかというと、わが生活は、とくに若いころは、行きあたりばったりの、つまりその時やりたいことを欲望に負けてすぐする傾向があったけれど、あるころから、おおよ20~30年くらい前か(えらく漠然としているね)、生活も忙しくなってきたためか、聴きだしたら止まりにくい音楽に関して、小生は計画を立てた。
それは、できるだけ音楽を聴かないこと。とくに好きな音楽は、偶然耳にしたとき以外は、あえて聴こうとしないこと。それらは、いつか自分に死期が迫ってきたときに、一度だけ真剣に聴こうと決めたのだった。というのは、いつでも何度でも聴ける状態だと、つい真剣に聴かないこともあるし、欲望は切りなく、そのとき飽きるまで何度でも聴いてしまう。だらしなく快感に浸る。こういった時間がもったいないと考えるようになったからだ。
その上もう一つの理由がある。それは、自然の音、風の音や川の流れ、鳥の声などが、じつに心地よく聞こえ、音楽を聴くように、これに聴き入ってしまうことがよくあるようになったからだ。ときには、鳥の声さえ聴いておれば、べつに音楽は要らないとさえ感じることがある。
死ぬまでに、あと一度だけ味わおうと思って、じっと我慢して残しておいた音楽は沢山ある。いま数日に一曲くらいのペースでそれを聴いている。これが最後だと思うと、大いに感動し、あっこんな面があったのだ、と新しい発見もすることがある。逆になんだこんなのだったのか、聴かずに永遠によい音楽だと思い込んでいたらよかった、と思うこともある。
…しかし、何でも予定通り、そううまくいくとは限らない。やっぱりいかん。これをもう一度聴きたくなる。止めたはずの煙草を試しに吸ってみる人のように、欲望はどこからともなく復活する。
昨夜聴いたシューマンの三番目の交響曲だが、参った。何十年ぶりで耳にしたのだが、こんなに豊富な音楽だったと思ったことがあろうか。Youtubeで聴いたにすぎない。Dudamelという人の指揮だが、じつにシューマンの交響曲が音楽になっているのだ。こんなに纏まった、しかもこんなに豊富な思想をもった音楽に。
音楽の力の前では小生は無力だ。「死ぬまで一曲一回」を守って、もう聴かないことができるだろうか、やはり誘惑に負けてもう一度聴いてしまうか、ここは考え所だ。体中から汗が吹き出る。


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コメント
音楽
No title
うたのすけさん、 そういう誘惑ならどんどん負けてもいいのではないですか。
もう一度最期に聴きたい(人為的)曲と、頭の中に自然発生する曲の違いはなんでしょうか。
よく言われる・・・生のシャッターが降りた後も耳だけは聴こえる・・・ということから、私は死んだあとも、お気に入りの何小節が
うかぶといいな、と思っています。やはり日本の抒情歌かしら。
大脳が刺激されてまた生還したりして、あ~あ
このところ、私は、ベートーベンの月光、3楽章と、グリンカ、リュスランとリュドミラの序曲の数小節が響いています。・・・・・どちらも戦闘態勢ですね・・・(笑)
もう一度最期に聴きたい(人為的)曲と、頭の中に自然発生する曲の違いはなんでしょうか。
よく言われる・・・生のシャッターが降りた後も耳だけは聴こえる・・・ということから、私は死んだあとも、お気に入りの何小節が
うかぶといいな、と思っています。やはり日本の抒情歌かしら。
大脳が刺激されてまた生還したりして、あ~あ
このところ、私は、ベートーベンの月光、3楽章と、グリンカ、リュスランとリュドミラの序曲の数小節が響いています。・・・・・どちらも戦闘態勢ですね・・・(笑)
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自然発生的に出てくるのは、主体の脳が活動していない隙をついて出てくるのでしょうね。ときどき気がつくのですが、リズムが音楽を導くことがありますね。例えば、お茶碗を洗っているとき、流水の音があるリズムを奏でていると、それにぴったりした音楽がやってくる。こういう経験があるでしょう。
また実験的に、指で机に適当に叩いていると、それに音楽が乗っかってきますよ。
死後は分かりませんが、少なくともその直前は、日常必要とした心理より深いところを流れる古代的な大河の音楽を聴くことができるのではないかなと期待しております。
それにしても、未見さんは、いつもいつも気分が前のめりの活動状態にあるのですねぇ。百分の一くらいパワー送っといてください。