クチナシの香 1
この香りそのみなもとはいづくにと
問へど白々くちなしにして
わが家には、花の大きさが異なる三本のクチナシの木がある。一本は地植え、小ぶりの花をつける二つは鉢植え。いずれもそこら辺りからちょっと失敬して、挿し木から育てたものだ。


以前にもこの香について触れたことがあるけれど。
いつもこの季節、初夏の光の輝きをうけて、白い花を咲かせ、甘い、クリーミーな香りを放つ。家族はあまり好まないが、この香は、小生にとっては、ある思い出と分かちがたく結ばれていて、どうしてもこの季節、その思い出にふけりたいという思いからのがれられないのである。
しかし、この香を嗅ぐとき、本当にあの時のこと、あの時に育んだ夢を思い描いているのであろうか。いや、どうもそうではないようだ。けっして、あの時のあれこれのいちいちを思い出しているわけではない。何となく漠然と、もっと正確に言えば、香そのもののが、いまだ映像として浮かびあがってくる以前の情動を包含していて、そこにはせいぜい形をなさぬ諸ニュアンスが遥曳しているだけのようであって、そして、後になってはじめて、たとえば人に説明でもしようして、その情動に問い合わせをする。そうすると向こうから答えが帰ってくる。だからうまく問い合わせをしたいものだ。〈思い出す〉とはそういうことのような気がする。
・・・それは、小生が大学に入った年のことであった。江戸川の近くに下宿先を決めておいた。4月には修繕が終わるはずのその家は、工事が遅れていた。大家さんは今まで住んでいたその家から、隣の新築に引っ越しをしていた。それで、大家さんは、あと1~2カ月、修繕が終わるまで、近くに仮の下宿先を手配したので、とりあえずしばらく、そこに逗留してくれと連絡してきた。
その仮の下宿先というのは、そこから歩いて2分くらいのところにあり、黒っぽい連子格子をしつらえた、古いがっしりとした家で、いまから思うと明治期の建物と思われる、その家の玄関脇の暗い8畳か12畳くらいになる二間続きの部屋があてがわれた。どうせ一時の仮住まいだと思い、机やタンスの置きどころが定まらず、部屋の一角に運び込んだまま置いておいたような気がする。布団は広すぎる部屋の真ん中にひいて寝た。
もとより下宿人をおく意図のない大家さんというのは、80歳くらいの老婆の一人住まい。ほかに下宿人はなし。さすが、最初に挨拶に行ったときは、この老婆の娘という人が応対してくれた。この娘家族はここから車で30分くらい離れたところに住んでいるという。
学校から帰ると、暗い広い部屋に居て、なんとなく落ち着かない。しんとした家で、ラジオやレコードをあまりかけるのも、お婆さんに悪いような気がするし、勉強したり本を読むという雰囲気でもなかったから、やたら外出し、その辺りを散歩しまくっていた。そこは広々とした江戸川沿いで、土手からの景色はとてもよかった。富士山が朝は朝日を浴びて大きく見えた、夕ぐれは夕日でシルエットになって、黒々とした富士は小生の暗い心の中心のようにも思われて、ためにいっそう周囲の夕焼け色が華やいで、飽きず眺めたものだった。
しかし、たぶん数日もしないうちに、お婆さんも下宿人のことを気にかけていたのか、小生が部屋に居ると、声をかけてくれるようになった。お茶でも飲みませんか。―その声を今でもはっきり思い出すことができる。―たぶん小生の部屋の隣の部屋だったと思うが、角火鉢だったかどうか、これまたハッキリしないけれど、火鉢には鉄瓶がちんちんと鳴っていたような・・・子供のころの記憶とごっちゃになっているかもしれない。お婆さんは小生を火鉢の脇に誘い、そこでお茶菓子をだしてくれた。
この老婆は、「高砂」によく描かれる姥のように、細身・小柄で、髪型から着物まで典型的な昔の老婆であった。顔はシンプルな雛鳥のようで、歳のわりに(じっさい何歳だったか思い出せないが)目がはっきりしていた。動作も声もしっかりしていた。火鉢の炭火で煙草の火をつけ、目を細めて、さも美味そうに煙をくゆらし、話もなかなか洒脱であった。だから小生も窮屈な思いはしなかった。「学校はどうですか」「食事はどこで」「ストリップ見に行きますか」など訊いたり、関東大震災の写真を見せてくれたりした。
かくするうちに、2カ月ほど経って、件の家の修繕は終わり、小生は予定どおり引越することになった。すぐ近くだったから、友人がリアカーを借りて手伝ってくれた。その日は小雨が降ったりやんだりで、友人が牽くリアカーの後姿がなんとも寂しげであった。小生の気持ちは、しかし〈ちゃんとした〉明るい六畳間に自分らしい巣をつくる期待が大きかった。
前置きが長くなったが、その後である。ちょうどこの季節、だから小生が引っ越ししてから1カ月後くらいであろうか、お婆さんが小生の下宿にやってきて、これをあげると言って、植木鉢いっぱいに真っ白い沢山の花をつけた植物を下さった。その香りは音楽のように、ぱっと六畳の部屋に満ちた。


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コメント
No title
お久〜
こちらまで甘い香りが漂って来るようですよ〜、
うたのすけ殿の青の時代ですねっ、続きを楽しみに待ってます!
うたのすけ殿の青の時代ですねっ、続きを楽しみに待ってます!
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青の時代とは言い得て妙ですね。
あの時分の小生は、非常に暗い重い気分に、まさに青年ピカソが描いたような、あんなダークブルーに被われていました。
とはいっても、不思議なもので、今から思い出すと、明るいそしてちょっぴり憂鬱なヘルブラウ!が同居しているのですね。青春とはそういうものでしょうか。