NYに行く 2
すでにニューヨークをよく知っておられる方たちにとっては当たり前のことではあろうけれど、初めて訪れて目に付いたところを少々語ろう。
まず何と言っても道路が混んでいる。イエローキャブ(タクシー)は、トヨタカムリが多い。日本ではやや大型の車ではあるが、向こうでは大きな感じがしない。それだけ、一般に大きめの車が多いような気がする。そして世界中の車が走っている。一般の車の色は比較的黒が多い。日本に多いシルバーはほとんどない。バスは大きくてエンジン音も大きい。車間距離10cmで曲芸のように走っているから、警笛がうるさい。車道も歩道も凹凸が多い。
マンハッタンは、ここ20年くらいに建ったと思われる50~60階くらいの新しいぴかぴかしたビルが林立しているが、それ以外、とくに周辺部は、その半分以下の高さの、いかにも古くて落ち着いたビルが多くい。薄茶色のビルの上辺や窓枠などの擬古典主義的な装飾、あるいはまたウエストサイド物語のあの赤煉瓦の壁と裏階段、マンションの最上階や一階の植え込みと鉄格子。そんな建物の側の歩道には街路樹が影を落として、その木漏れ日の中を歩いていると、何とはなしに懐かしいという感慨が湧く。
ふと思った、もし自分が20代の若者だったら、どういう気持ちでこのニューヨークの街を歩くだろう。いや、より正確に言えば、真っ先に浮かんだのは、もし自分が20代だったら、こんな風には感じないだろう、という思いだった。きっとそれほどノスタルジックな気分に呑まれていたのである。戦後のアメリカの黄金時代の映画や音楽に、今の若者もわれわれと同様に接しているであろう。しかし、それらが自分の来し方に混じり合うということは、彼らにはまだないであろう。ましてや、われわれの親たちが夢を育んだあの時代の空気を、ほんのわずかであるが、われわれもまた覚えているあの空気を、嗅覚的に知ることはないであろう。いかなる世代も、他の世代には伝え難い想いをもっているものだ。ITにまみれた超高層ビルの谷間にも、なお昔日の夢をいだく小生の耳に、夕暮れのようなパセティックな響きが聞こえてくる。おそらく今の若者、あの9・11を幼くして知った若者たちは、われわれとはまた違った、未来への期待と凋落とが混じり合った新しい響きを聞きとっていることだろう。
道路は概ね京都のように碁盤目をなしていて、南北をアヴェニュー、東西がストリートと言い、東・南から順番に番号が付けられていて、馬鹿でもすぐ分かるようになっている。これは合理的で、とくに旅人には親切でよいと思った。朝食はホテルの近くに店が多く、そこでは多くの種類のパンやハム、野菜、果物などがあり、好きなだけ注文して、そこで食べる所もある。歩きながら食べてもいる人もちょいちょいいる。たいていはホテルに持って帰って食べる。しかし、とにかく一様にみな包装がしっかりしていて、ナプキンというか紙を沢山つけてくれる。とても勿体ない、もっとシンプルでいいのにと思った。だから、歩道のゴミ箱は溢れていることが多く、ゴミ収集車も大きいのが目に付いた。どこもかも建物はエアコンが効かせ過ぎであって、これも勿体ないと思った。さすが、資源の豊富な国の人たちは、われわれとは感覚が違うと強く思った。
思いだしたが、飛行機はデルタ航空(アメリカ)だったけれど、もう5分もいると寒くてたまらないほど、エアコンが効かせてあって、(もっとも一万メートル上空はマイナス50度c以下だから、ここでは暖房の節約と言うべきかもしれない)、しかし、白人は、大人も子供もみなTシャツ一枚で長長時間、平気な顔をしているのには、驚かされた。小生は後に寒さ対策として、ズボン下、上着とマフラーを常に用意した。美術館では若い女の子などはタンクトップと恐ろしく短いショートパンツ姿で、これなどは小生の眼には半裸といってよく、こんな姿でエアコンの効いたところに、よく何時間も平気でいることよ、とあきれた。
いたるところで人々が話している言語の多様性。一番多く耳にしたのはスペイン語(たぶん)、次に英語、それから中国語であった。ホテルの受付や観光案内所での英語は、小生の耳には難解であった。メトロポリタン・オペラ劇場では今何をやっているのか尋ねたら、「キンガナーイ」と言う。何じゃらほいと首をひねっていると、ケン・ワタナベと言ったから判った、「キング・アンド・アイ」なんだ。別にとくに見たいと思わなかったから行かなかったけれど。まあこんな程度のリッスニング力で、よく来たものよ、自分にはまだまだめくら蛇の若さがのこっているなと嬉しく思った。ついでにすぐ近くにカーネギーホールがあったから、何かやっていたら聴こうと思って行ったが、ろくなモノをやってないと思ったからやめた。まあ疲れてもいたんだろう。
ヒルトンホテルとはいえ、作りはそうよいとは思わなかったし、水周りの直しのいい加減なこと、プロがやったとはとても思えない。また風呂の蛇口の操作の分かりにくいこと、筒状の取っ手を引けば水が出るのが判ったけれど、硬いのなんのって、老婆だったら絶対に出来ないだろうと思った。それから、櫛も髭剃りも歯ブラシも湯沸かし器も冷蔵庫もなく、困った。日本のおもてなし様式に慣れてしまっている小生は、アメリカン(グローバル?)スタンダードに無知であったことを今まさに知ったのだった。日本はガラパゴスの亀、絶滅危惧種なのか? グローバル化しなければならないなんて冗談言うなよ。
まあ、とにかく日本に育った小生から見ると、アメリカはほんとうに人種の坩堝だな、言語も肌の色もいろいろだし、だからとても背の高い人やとても低い人が均一の頻度で居る。セントラル・パークでは、一人でにこにこして踊っている(ように見えた)オジサンがいた。近くへ寄ると一ヶ月くらい風呂に入っていないような匂いがした。映画俳優のようなピカピカしたドレスを着た金持ちそうな人もいるし、夕方になると歩道に座って「Homeless Help me…」など書いて、缶缶を置いている人たちも毎日見かけた。3人のそういう人に1ドルくらいだけどあげて、観光客だと言うと「Have a nice trip」などと返してくれる。そう言えば、最後の日の夕方、そういう老人がいて、缶缶を振っているので、何セントか入れてあげたら、何か話したがっているので、少し話をした。するととてもにこにこして上機嫌になった。ははー、このオジサンはこれが楽しみなんだなと思うと、こちらも楽しくなってくる。ホテルに帰って、カップラーメンに目がとまった。日本から持ってきたものだ。湯がないから、食べること能わず、ずっとそのままテーブルに置いていたのだ。最後の朝に枕銭といっしょに置いておこうと思っていたのだけど、急にさっきのオジサンにあげようという気になった。
それで、そのカップラーメンと買ったばかりのメロンパンと水をもって、オジサンのところに行った。ところが、オジサンの姿はどこにもない。なんだもう仕事止めたのかとちょっとガックリ。帰り道、隣のブロックに女の子が「homeless help me…」を書いたボール紙とコップを前に置いて、膝を抱えて坐っている。20歳くらいか。顔を見ると表情は暗い。この子にさっきの飲食物に1ドル札を添えてあげた。カップラーメンについて説明をしたついでに、アメリカに来た理由などをしゃべっていて、つい彼女の隣りに坐り込んでいたんだ。するとたぶん中国人と思われるが、母子が通りかかった。お母さんは1セント硬貨をもって、女の子のコップに入れようとした、そのとき同時に子供(10歳前くらいか)に、自分の写真を撮らせようとした。その刹那、女の子はあわててボール紙の立て札を隠し、コップを引き下げ、その母に何か叫んだような気がするが、はっきりしない。それが、突然の素早い動作で、何かちょっと危険なことが起こりそうな感じがして、小生も一瞬身を引いた するとお母さんはコインを入れるのをためらったが、結局入れず、ややあって子供の手を取って遠ざかって行った。その瞬間、小生は何が起こったのか了解した。女の子は元の状態に戻った。小生は言った「なんで写真を子供に撮らせようとしたのか理解できない」と。女の子は言った「私もそうよ。あのような人は嫌いだわ」…彼女は小生に握手を求めた。小生も彼女の仕事の邪魔をしたくなかったから、握手をして別れた。そのとき、ついうっかり「good luck」と言ってしまった。しまったと思ったが、後の祭り。この言葉はこういう状況で使うべきでないと思った。
ほんとうに世の中には、いろいろな人が居るものだ。1ドル札を恥ずかしそうに入れて、さっと立ち去る人もいれば、あのお母さんみたいな振る舞いをする人もいる。


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まず何と言っても道路が混んでいる。イエローキャブ(タクシー)は、トヨタカムリが多い。日本ではやや大型の車ではあるが、向こうでは大きな感じがしない。それだけ、一般に大きめの車が多いような気がする。そして世界中の車が走っている。一般の車の色は比較的黒が多い。日本に多いシルバーはほとんどない。バスは大きくてエンジン音も大きい。車間距離10cmで曲芸のように走っているから、警笛がうるさい。車道も歩道も凹凸が多い。
マンハッタンは、ここ20年くらいに建ったと思われる50~60階くらいの新しいぴかぴかしたビルが林立しているが、それ以外、とくに周辺部は、その半分以下の高さの、いかにも古くて落ち着いたビルが多くい。薄茶色のビルの上辺や窓枠などの擬古典主義的な装飾、あるいはまたウエストサイド物語のあの赤煉瓦の壁と裏階段、マンションの最上階や一階の植え込みと鉄格子。そんな建物の側の歩道には街路樹が影を落として、その木漏れ日の中を歩いていると、何とはなしに懐かしいという感慨が湧く。
ふと思った、もし自分が20代の若者だったら、どういう気持ちでこのニューヨークの街を歩くだろう。いや、より正確に言えば、真っ先に浮かんだのは、もし自分が20代だったら、こんな風には感じないだろう、という思いだった。きっとそれほどノスタルジックな気分に呑まれていたのである。戦後のアメリカの黄金時代の映画や音楽に、今の若者もわれわれと同様に接しているであろう。しかし、それらが自分の来し方に混じり合うということは、彼らにはまだないであろう。ましてや、われわれの親たちが夢を育んだあの時代の空気を、ほんのわずかであるが、われわれもまた覚えているあの空気を、嗅覚的に知ることはないであろう。いかなる世代も、他の世代には伝え難い想いをもっているものだ。ITにまみれた超高層ビルの谷間にも、なお昔日の夢をいだく小生の耳に、夕暮れのようなパセティックな響きが聞こえてくる。おそらく今の若者、あの9・11を幼くして知った若者たちは、われわれとはまた違った、未来への期待と凋落とが混じり合った新しい響きを聞きとっていることだろう。
道路は概ね京都のように碁盤目をなしていて、南北をアヴェニュー、東西がストリートと言い、東・南から順番に番号が付けられていて、馬鹿でもすぐ分かるようになっている。これは合理的で、とくに旅人には親切でよいと思った。朝食はホテルの近くに店が多く、そこでは多くの種類のパンやハム、野菜、果物などがあり、好きなだけ注文して、そこで食べる所もある。歩きながら食べてもいる人もちょいちょいいる。たいていはホテルに持って帰って食べる。しかし、とにかく一様にみな包装がしっかりしていて、ナプキンというか紙を沢山つけてくれる。とても勿体ない、もっとシンプルでいいのにと思った。だから、歩道のゴミ箱は溢れていることが多く、ゴミ収集車も大きいのが目に付いた。どこもかも建物はエアコンが効かせ過ぎであって、これも勿体ないと思った。さすが、資源の豊富な国の人たちは、われわれとは感覚が違うと強く思った。
思いだしたが、飛行機はデルタ航空(アメリカ)だったけれど、もう5分もいると寒くてたまらないほど、エアコンが効かせてあって、(もっとも一万メートル上空はマイナス50度c以下だから、ここでは暖房の節約と言うべきかもしれない)、しかし、白人は、大人も子供もみなTシャツ一枚で長長時間、平気な顔をしているのには、驚かされた。小生は後に寒さ対策として、ズボン下、上着とマフラーを常に用意した。美術館では若い女の子などはタンクトップと恐ろしく短いショートパンツ姿で、これなどは小生の眼には半裸といってよく、こんな姿でエアコンの効いたところに、よく何時間も平気でいることよ、とあきれた。
いたるところで人々が話している言語の多様性。一番多く耳にしたのはスペイン語(たぶん)、次に英語、それから中国語であった。ホテルの受付や観光案内所での英語は、小生の耳には難解であった。メトロポリタン・オペラ劇場では今何をやっているのか尋ねたら、「キンガナーイ」と言う。何じゃらほいと首をひねっていると、ケン・ワタナベと言ったから判った、「キング・アンド・アイ」なんだ。別にとくに見たいと思わなかったから行かなかったけれど。まあこんな程度のリッスニング力で、よく来たものよ、自分にはまだまだめくら蛇の若さがのこっているなと嬉しく思った。ついでにすぐ近くにカーネギーホールがあったから、何かやっていたら聴こうと思って行ったが、ろくなモノをやってないと思ったからやめた。まあ疲れてもいたんだろう。
ヒルトンホテルとはいえ、作りはそうよいとは思わなかったし、水周りの直しのいい加減なこと、プロがやったとはとても思えない。また風呂の蛇口の操作の分かりにくいこと、筒状の取っ手を引けば水が出るのが判ったけれど、硬いのなんのって、老婆だったら絶対に出来ないだろうと思った。それから、櫛も髭剃りも歯ブラシも湯沸かし器も冷蔵庫もなく、困った。日本のおもてなし様式に慣れてしまっている小生は、アメリカン(グローバル?)スタンダードに無知であったことを今まさに知ったのだった。日本はガラパゴスの亀、絶滅危惧種なのか? グローバル化しなければならないなんて冗談言うなよ。
まあ、とにかく日本に育った小生から見ると、アメリカはほんとうに人種の坩堝だな、言語も肌の色もいろいろだし、だからとても背の高い人やとても低い人が均一の頻度で居る。セントラル・パークでは、一人でにこにこして踊っている(ように見えた)オジサンがいた。近くへ寄ると一ヶ月くらい風呂に入っていないような匂いがした。映画俳優のようなピカピカしたドレスを着た金持ちそうな人もいるし、夕方になると歩道に座って「Homeless Help me…」など書いて、缶缶を置いている人たちも毎日見かけた。3人のそういう人に1ドルくらいだけどあげて、観光客だと言うと「Have a nice trip」などと返してくれる。そう言えば、最後の日の夕方、そういう老人がいて、缶缶を振っているので、何セントか入れてあげたら、何か話したがっているので、少し話をした。するととてもにこにこして上機嫌になった。ははー、このオジサンはこれが楽しみなんだなと思うと、こちらも楽しくなってくる。ホテルに帰って、カップラーメンに目がとまった。日本から持ってきたものだ。湯がないから、食べること能わず、ずっとそのままテーブルに置いていたのだ。最後の朝に枕銭といっしょに置いておこうと思っていたのだけど、急にさっきのオジサンにあげようという気になった。
それで、そのカップラーメンと買ったばかりのメロンパンと水をもって、オジサンのところに行った。ところが、オジサンの姿はどこにもない。なんだもう仕事止めたのかとちょっとガックリ。帰り道、隣のブロックに女の子が「homeless help me…」を書いたボール紙とコップを前に置いて、膝を抱えて坐っている。20歳くらいか。顔を見ると表情は暗い。この子にさっきの飲食物に1ドル札を添えてあげた。カップラーメンについて説明をしたついでに、アメリカに来た理由などをしゃべっていて、つい彼女の隣りに坐り込んでいたんだ。するとたぶん中国人と思われるが、母子が通りかかった。お母さんは1セント硬貨をもって、女の子のコップに入れようとした、そのとき同時に子供(10歳前くらいか)に、自分の写真を撮らせようとした。その刹那、女の子はあわててボール紙の立て札を隠し、コップを引き下げ、その母に何か叫んだような気がするが、はっきりしない。それが、突然の素早い動作で、何かちょっと危険なことが起こりそうな感じがして、小生も一瞬身を引いた するとお母さんはコインを入れるのをためらったが、結局入れず、ややあって子供の手を取って遠ざかって行った。その瞬間、小生は何が起こったのか了解した。女の子は元の状態に戻った。小生は言った「なんで写真を子供に撮らせようとしたのか理解できない」と。女の子は言った「私もそうよ。あのような人は嫌いだわ」…彼女は小生に握手を求めた。小生も彼女の仕事の邪魔をしたくなかったから、握手をして別れた。そのとき、ついうっかり「good luck」と言ってしまった。しまったと思ったが、後の祭り。この言葉はこういう状況で使うべきでないと思った。
ほんとうに世の中には、いろいろな人が居るものだ。1ドル札を恥ずかしそうに入れて、さっと立ち去る人もいれば、あのお母さんみたいな振る舞いをする人もいる。


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