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NYに行く 3

 さて目的の絵とは、近代美術館(MoMA)所蔵の、ピカソ作『アヴィニョンの娘たち』なのだ。小生がもっとも衝撃を受けた絵だ。20歳代のいつだったか覚えがない。

アヴィニョン2


ついでに見てくれ、恥ずかしながらこれ、小生が27歳のときに真似してデッサンしたもの。


アヴィニョンデッサン小


そのころまた、たしか京都の大原に行った時に、陶器のお皿に何でも好きなものを描いて、後でそれを窯で焼き上げて送ってくれる露店があって、そのとき記憶で描いたものとヴァリエーション。

  ピカソ皿小2 (2)


笑っちゃうね。恥の上塗りもいいとこ。しかし当時絵と言えば、これがいつも頭から離れなかった。

さて、この美術館に入って、この絵がある5階に行ったのだけど、直行するのはためらわれた。心の準備ができていない。しばらく入口のものから順々に見て、目と心を慣らしてから見ようと考えた。しかし、不安もあった。もし直前に他の作品に感動してしまったり、あまりに多くの名画を先に見て疲れ、心身の調整ができず、目的の本命に感動しなかったらどうしよう。

それから、こういうこともある。以前からつねづね考えていたことだけど、本物が模倣品より、よいとは限らないのではないか、という疑問である。本物偽物というのは大した問題ではなく、むしろこちらの鑑賞準備状態が問題なのではないか。思えば、われわれ日本人は西欧の芸術を、例えば音楽はレコードで聴き、絵は印刷で見、本は翻訳で読んできたのである。みんな偽物である。しかしわれわれはそれでもって楽しみ、吸収してきたのではないか。

だからわれわれは多くの誤解をしてきたのだ、と人は言うかもしれない。しかし、誤解ほど面白いものはない。少なくとも、非常に個性的な誤解は正解より面白い。もちろん、個性的でありさえすればよいとは全然思わないけれど。むしろ個性的などというものは余分なことである。言いたいことは、要するに、こと芸術鑑賞に関するかぎり、正解も誤解もありはしない。感動したり、夢をもらったり、喰い入る深浅があるだけだ。

とはいえ、芸術に意味がないがないかというと、またそうとも言い切れないと感じる。言語芸術は、言葉の意味に触れずに味わうことはできない。言葉の有する意味を度外すれば、それは音楽になろう。では純粋な音楽に意味はないかというと、なかなかそうとも言い切れない。言葉による意味はなくても、音楽自体がもつ意味がある。そのことを鋭敏に感じとったワグナーは、あのような長大な〈楽劇〉を創った。書かれた文字についても同様で、書を見るごとに思うことだが、文字の意味にまったく触れずに味わうことは難しいとはいえ、見る人は書体そのものに意味を感じている。絵画についても同じことが言える。色彩の配置や線や形態が意味をもつ。

ところで、作品の意味は、作者が意図したモノであろうか。もし作者の中にすでに意図が内在していて、作品の意味は、その意図を明るみに出すのだとすれば、芸術作品ではない。むしろ意図は、作品の後で、あるいは作品の制作過程で、後から出てくるものではあるまいか。少なくとも、実際の制作から何らかのバイアスを受けるのではないだろうか。晩年のセザンヌの筆はとてもストイックである。けっこう多くの作品に余白がある。それは彼が意図しようとしたものをどうしても出せなかったというよりも、むしろ作品の方が彼に筆を入れるのを禁じたのだと、小生は感じる。つまり、作品には作者のあらかじめの意図を超えたものがあるのではないか。創造には、多かれ少なかれ何か神秘な付加がなければならないのではないか。

で芸術とはなんだろう。と話がどんどん逸れていくけれど、このMoMAの五階の作品群を見て、じつは考えていたのは、そのことなのだ。考えていたと言っても、結局は不毛な同語反復に終わってしまっただけだけど。…で、歩いて行くうちに、壁に掛けられている絵はだんだんと19世紀から20世紀へ近づいて行く。と、カメラやスマホを持つ人だかりがある。彼らが向かっているはゴッホの『星月夜』だ。小生も眺めた。遠くから見ると複製で見るのとそっくりだ。

 ゴッホ人々


もっと近寄って絵筆の一刷一刷を見たい。しかし、カメラを絵に向けている人が多く、絵にあまりに近寄るのは憚られた。しかし、ある瞬間、思い切ってうんと近づいて見ていたら、監視員に制された。たしかに何億円もする絵に小生の汚ない息を吹きかけてはいかんだろうな。

小生があるとき気付いた絵の見方なんだけど、まず適当に離れた距離から〈全体〉を見る。それから、うんと近づく。作者が絵筆を持って描いたであろう距離に近づいて、自分も作者になったつもりで、画家が描いたであろうと思われる順番に筆を入れていく。或る程度そうしたら、もう一度眺めながら後退する、するとピタッとくる距離がある。あたかも3Dの絵が浮かび上がってくるように。こういう瞬間に全体としての絵を掴んだという気持ちになる。いつもうまくいくとは限らないけれどね。

それにしてもゴッホの絵を見るのはつらい。彼の生涯を知ってしまっているからね。彼には見えたんだ、月や星があんなに強烈な渦巻く光を放っているのが。願わくば、彼の生涯をまったく知らずに彼の絵をゆっくり見たいものだ、そのときどう感じるであろう。えらくぎらぎらした絵だなと思うだけで通り過ぎてしまうかもしれないけれど。しかしまた、知っているからこそ、いつぞやゴッホ展で見た『ひまわり』の黄色に感動できたのだと思う。あれは、何というか、強烈な幸福への希求、あるいは仏陀の絶対安心とでもいう言葉が浮かんでくる。

 『星月夜』から目を転じると、左手の向こうの部屋に、ちらっと『アヴィニョンの娘たち』が見えた。見たというより、向こうに見つめられたような気がした。ああ、見つかってしまったか。そんな感じで、なんかちょっと気が動転して、おろおろしてしまった。その瞬間、頭を掻いていたかもしれない。




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コメント

時空を超える・・・?

おお、未見太郎さん、こんばんは。
コメントありがとう。最初の一瞥で恋に落ちるなのでしょう。
でも、しばらくすると、忘れてしまっている。長い期間を経て
ふと思い出して、あれはいったいなんだったのか考える。
そして、ふたたび鮮明に迫ってくる。しかし、どこか違う。
そして、歳をとることの意味が分かる。
面白いですね、歳をとるってことは、つまり生きるってことは。
でも、他人から見るとまだ青春なんかなぁ~。

時空をこえて、芸術の力。

感動のきっかけは最初の一瞥にある・・・・。

ある作家が何かに書いてましたが。

昔京都で描かれたお皿の彩色はうたのすけさんのオリジナルですよね、夢を育んだ(その思い)は、あなたにとって、ある意味、本物ではないでしょうか。

何十年も経て、やっとあこがれの「アヴィニオンの娘たち」に出会えた、逢えたうたのすけさんの含羞が伝わってきます。

青春はつづく・・・・。

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