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NYに行く 4

誰でも知っているように、ピカソは生涯たえず作風を変えていった画家だ。それは、早熟の天才がどんどん新しい局面を創造していったとも言えるし、既成品をどんどん壊していったとも言える。彼のような非常に多産な画家については、もう言葉を失うしかないけれど、小生にとっては、この作品を前にしていると、何と言うか、驚きと一種独特の不安で満たされる。一言で、〈存在の爆発と新しい神話の誕生〉

この絵をキュービズムと言っても、べつにかまわないが、いわゆるキュービズムからは決して出てこないものがある、あるいはそういうにしてはあまりに豊富である。また抽象絵画と言ってもよいが、この画面には、明らかに5人の女性が見てとれる。

人は目がなければ描くことはできない。抽象化から絵画芸術は始まったという人があるが、でたらめに色や線や面を配することはできない。どうしても目の前の具体的なものから始めなければならない。近年、でたらめに絵の具を塗りつけたり振りかけたりして、絵画作品とする人たちがいるが、小生に言わせれば、それは宝くじを買うようなものだ。極めてまれに心を動かす作品も生まれようが、99%以上がカスである。

一万五千年前の人たちが洞窟の壁に描いた動物や人は、模倣であるか、それとも抽象化であるか。石器時代の女性の土偶は模倣か抽象化か。実際これらを鑑賞する人は、石器時代の人たちは何ゆえこの様なものを描いたのだろう、あるいは創ったのであろう、と考える。想像するに、まず対象に対する驚きが根本にあろう。そして描いたり作ったりするのは、対象を捉えようとすることではあるまいか。対象を捉えるとは、その内奥の特徴的な力を捉えることだ。動物や女性がもつ力を捉えようとすること、それはその力の源泉に近づきたいという誘惑、その力をふたたび呼び起こし、その力に少しでも与ろうとすることに他ならない。それら絵や彫像は純粋に模倣でもないし抽象でもない。むしろ模倣と抽象とが同義となるような行為ではなかろうか。

それは、すなわち強いて言えば、呪術と言いたくなるあるものではあるまいか。彼らの行為は、模倣・抽象という現代語のもっと向こうの、もっと原初的な行為、すなわち呪術、それは宗教のごく初期というか、根底にある衝動だ。われわれ現代人は、芸術と宗教と分けて考えるが、しかし、石器時代は、いわばそれらが混じり合っている未分化なある行為である。

いつも思うことであるが、われわれ現代人にもかすかにそう感じられるときがある。ペンダントをつけたり、要するにおしゃれをするとき、自分に新しい力が加わったような気がする時があるではないか。おしゃれをすること、それは美的行為か呪術的行為か。

ラスコーの壁画や縄文土偶を思い浮かべよう。小生はどうしても、あれらに超自然的な力に対する驚き、畏怖と祈願とが入り混じったものを感じる。あれらを前にすれば、牛や女性の存在そのものに対する驚き、畏怖や祈願が一体になった、ある感覚に襲われないか。だが、こういう感覚を素直に表しがたいのは、われわれはもはや古代人でないからである。

つねづね思うことであるが、現在のわれわれの感覚・思考でもって過去の人たちの心を考えることはできないのではないか。例えば、その昔、世の中に、オレンジと紫としかなかった時代があったと仮定しよう。そのとき、オレンジ色は、単一で基本的ないわば原色であったのである。いろいろな色を知っている現代人から見ると、オレンジ色は黄色と赤色とが混じったものだ、と断じる。しかし、当時の人たちが見るオレンジ色は基本的な単色であったのだ。そこには黄色も赤も含まれてはいない。そもそも黄色も赤もなかったのである!

そういう意味で、石器時代の人たちにとって、描くことは、〈呪術的なある単一な行為〉なのであって、われわれの言うところの分化した呪術と絵画との混じったものではないだろう。その行為はオリジナルな単一なものである。いつの時代についても、われわれはいまの感覚でものを言ってはいけない、と思う。芸術の起源は呪術的なある行為であって、芸術はそこから分化・発展してきた、そしてたえず変化しつづけてきたのであって、それでも今なお太古の残響が微かに残っている。現代芸術とはさらに哲学的、科学的、思想的、装飾的な意味が加わってきていて、じつに多義にわたり、また同時にそれらを排除し、純潔を守ろうとするようなある行為である、と言えまいか。

今となっては、大なり小なり芸術とは、われわれの感覚から日常生活によってつけられた手垢を落とそうとしてくれるものではないかとよく思う。われわれのすべての能力は、もっぱら生きるための、明日の生活のための効率のみに捧げられているように見える。しかしそこから目を転じて、何でもいい、何かをじっと見つめてみよう。するとそこから今まで知らなかった或る世界を垣間見ることができる。その世界とは、おそらく人間と自然とがどこまでも親密であるような関係であって、その多彩な相の一部をわれわれは見ることができる。絵画芸術とは、そのための案内図を提供するものではないか。つまり、われわれが自然の秘密を知ることができる早道は、いわゆる芸術を通してなのだ。

休むことなく新しい世界の入口を叩いては開けようとして、そのために膨大な作品を描いたピカソにとって、この『アヴィニョンの娘たち』は、その最大の力仕事であったように感じる。小生にとって、絵画の意義を考えるのに、ほとんどこれだけで充分だ。


   アヴィニョン2


もっとよく見ろ、もっとよく見ろ」と、
後ろに居る客観の影が背中を押す。
「目をつぶれば、描くべきものはないぞ」

存在が爆発する。
空間を破って形が現れる。
圧倒的な力をもって脱皮しつつ
女神たちは未聞の叫びを発する。
「表面は裏面。裏面は表面。全ては鏡像。」

先史のある窪みから
小刻みに溶岩が噴きだして次々に形を為す。
人間色の微妙な色が浮き出てくる。
わずかに残った青い空間が垂れ落ちて凝縮する。

誰か、捧物をたてまつったのは、
ああ、ついに新しい天の岩戸伝説が生まれる。
そして、ピカソはシャーマンになる。



     

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