堺事件
それにしても、明治維新というのは、知れば知るほど、考えれば考えるほど、不思議で完璧な出来事のように思えてくる。なんでや、江戸時代という泰平の世、盤石であったはずの徳川幕藩体制が、いつの間にか、あれよあれよと言う間に崩れていって、一朝気が付いてみれば、静かにクーデタは終わっていた。あはれ、昨日の総大将はカヤの外。残された子分たちは後始末に追われるばかり。
ちょうどその頃、いわゆる戊辰戦争のさ中、堺の港でフランスの水兵11人が、土佐藩士たちによって殺されたという事件が起こった。世にいう堺事件である。外国人が日本人によって殺される事件は、生麦事件をはじめ、数年前からしばしば起こっていた。それにしても、これほどの沢山の外国人が一度に殺された事件はめずらしいし、もうこのころは、〈攘夷〉の嵐はだいぶん鎮まってきていたはずだと思っていたが…。
事件の概要はこうである。フランス軍艦が堺港で測量を行っていた間に、水兵らが上陸し、どうも悪ふざけをやっていたらしい。付近の住民の要請により、その地域を警備していた土佐藩兵らが水兵らを捉えようとしたら、水兵らは逃げた。そのとき、水兵の一人が土佐の歩兵隊旗を奪った。それを梅吉という旗持ちが追いかけて彼を倒し、隊旗を取り返した。すると、水兵らが銃を発射したので撃ち合いになった。船に逃げ戻ろうとした水兵を、藩兵たちは結局11人殺害した。
土佐の隊長二人は、責任者である自分たちが責めを負うと言った。しかし、それだけではフランス公使ロッシュの気がおさまらない。英蘭などの同情も手伝って、彼は、日本政府に強く当り、陳謝、賠償、下手人らの処刑を要求した。結局、発砲した覚えのある藩兵ら16名を含めて20人が切腹を仰せつかることになる。彼ら16人はただの一平卒であったが、ありがたくも士分として切腹できることに喜びをみいだした。
正午、フランス側代表を含め並みいる人々の前で、型通りの形式で、一人として過たず堂々と腹を切り、介錯される。ある者は、フランス人たちに、「自分は国のために死ぬ。日本男児の切腹をよく見ておけ」とか言ったそうな。ところが、11人が切腹を終え、12人目の橋詰という人物がさてやるぞと腹に手を当てたその時、フランス代表らは、突然その場から退出した。それを見て、役人は「しばらく」と橋詰を制した。退出したフランス代表らは、その場に帰って来なかった。言うところによると、彼らの行為には感服した、もうこれ以上は死ぬ必要はない、残り9人については日本政府に助命を乞うと。
出鼻をくじかれ困惑する残りの罪人たち、何故と問えど、肝心のフランス代表の前でなくては切腹の意味がないと目付けは答えるばかり。それで結局のところ、彼らは、浅野家(広島藩)と細川家(熊本藩)において一時預かりの身となった。二カ月ほどして、彼らは流罪に処せられることとなった。しかし、どうも得心がいかぬ。許されたはずなら、どうして流罪になるのか。目付け答えて曰く、あなたがたは先に逝った11人の苦痛に準じる刑を受けねばならないと。(そんな理屈がどこにある)彼らは苦笑するしかなかった。
数カ月後、明治天皇即位のゆえの特赦を受け、無事高知に帰国したのだが、念願の士分は叶わなかった。
*
この堺事件の一ヶ月くらい前、神戸で備前兵の行進の前を横切った一アメリカ人水兵が射殺されるという事件があった(備前事件)。発砲を命じた備前兵は、パークスら外国人の要望により、切腹を命じられた。この兵士の切腹を見たアーネスト・サトウは、その一部始終を『一外交官の見た明治維新』のなかで詳しく、感動的な筆致でえがいている。
そして彼は書いている。この時の死刑執行と、引き続く堺で11人の死刑執行とについて、「ジャパンタイムズ」の編集長は、法による殺人たる死刑執行に臨んだのはキリスト教徒としてけしからぬ、また腹切りというイヤな見世物に(西洋人が)臨席したのは恥であると語っているが、それは大きな間違いである、むしろ、自分はこの刑罰を実行させ、立ちあったことを誇りにしている、と。
「腹切りはイヤな見世物ではなく、きわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、・・・はるかに厳粛なものだ。この罪人と同藩の人々は私たちに向かって、この宣告は公正で、情けあるものだと告げたのである。」もっとも、彼が堺事件において一方的に土佐藩兵が無害な非武装のフランス水兵11人を殺害したとしているのは、日本人の報告よりもフランス人の報告を信じたゆえであろう。
しかし、「死刑を宣告された20名中11名の処刑がすんだとき、(フランス)艦長が執行中止の必要があると判決したのは、実にいかんであった。なぜなら、20人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が11人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりもむしろ復讐を好む者のように受け取られるからである。」
この様に書くアーネストは、常に文明国イギリスというものを背後に感じていたようだ。もっぱら通訳者・翻訳者として活躍していた彼であったが、自国人に対しても、他の西洋諸国人に対しても、日本人との交渉に臨んでも、いざというとき毅然とした態度を持していた。
堺事件は、森鴎外の小説で有名だが、鴎外の淡々とした簡潔な文体、三島の言を借りれば、〈冬の日の武家屋敷の玄関先〉のような凛とした文体は、この事件を描くに相応しい。そして、アーネスト・サトウの視点から見て、この事件はなんと日本的な、深い問題を蔵した事件であることかを、あらためて思った。

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ちょうどその頃、いわゆる戊辰戦争のさ中、堺の港でフランスの水兵11人が、土佐藩士たちによって殺されたという事件が起こった。世にいう堺事件である。外国人が日本人によって殺される事件は、生麦事件をはじめ、数年前からしばしば起こっていた。それにしても、これほどの沢山の外国人が一度に殺された事件はめずらしいし、もうこのころは、〈攘夷〉の嵐はだいぶん鎮まってきていたはずだと思っていたが…。
事件の概要はこうである。フランス軍艦が堺港で測量を行っていた間に、水兵らが上陸し、どうも悪ふざけをやっていたらしい。付近の住民の要請により、その地域を警備していた土佐藩兵らが水兵らを捉えようとしたら、水兵らは逃げた。そのとき、水兵の一人が土佐の歩兵隊旗を奪った。それを梅吉という旗持ちが追いかけて彼を倒し、隊旗を取り返した。すると、水兵らが銃を発射したので撃ち合いになった。船に逃げ戻ろうとした水兵を、藩兵たちは結局11人殺害した。
土佐の隊長二人は、責任者である自分たちが責めを負うと言った。しかし、それだけではフランス公使ロッシュの気がおさまらない。英蘭などの同情も手伝って、彼は、日本政府に強く当り、陳謝、賠償、下手人らの処刑を要求した。結局、発砲した覚えのある藩兵ら16名を含めて20人が切腹を仰せつかることになる。彼ら16人はただの一平卒であったが、ありがたくも士分として切腹できることに喜びをみいだした。
正午、フランス側代表を含め並みいる人々の前で、型通りの形式で、一人として過たず堂々と腹を切り、介錯される。ある者は、フランス人たちに、「自分は国のために死ぬ。日本男児の切腹をよく見ておけ」とか言ったそうな。ところが、11人が切腹を終え、12人目の橋詰という人物がさてやるぞと腹に手を当てたその時、フランス代表らは、突然その場から退出した。それを見て、役人は「しばらく」と橋詰を制した。退出したフランス代表らは、その場に帰って来なかった。言うところによると、彼らの行為には感服した、もうこれ以上は死ぬ必要はない、残り9人については日本政府に助命を乞うと。
出鼻をくじかれ困惑する残りの罪人たち、何故と問えど、肝心のフランス代表の前でなくては切腹の意味がないと目付けは答えるばかり。それで結局のところ、彼らは、浅野家(広島藩)と細川家(熊本藩)において一時預かりの身となった。二カ月ほどして、彼らは流罪に処せられることとなった。しかし、どうも得心がいかぬ。許されたはずなら、どうして流罪になるのか。目付け答えて曰く、あなたがたは先に逝った11人の苦痛に準じる刑を受けねばならないと。(そんな理屈がどこにある)彼らは苦笑するしかなかった。
数カ月後、明治天皇即位のゆえの特赦を受け、無事高知に帰国したのだが、念願の士分は叶わなかった。
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この堺事件の一ヶ月くらい前、神戸で備前兵の行進の前を横切った一アメリカ人水兵が射殺されるという事件があった(備前事件)。発砲を命じた備前兵は、パークスら外国人の要望により、切腹を命じられた。この兵士の切腹を見たアーネスト・サトウは、その一部始終を『一外交官の見た明治維新』のなかで詳しく、感動的な筆致でえがいている。
そして彼は書いている。この時の死刑執行と、引き続く堺で11人の死刑執行とについて、「ジャパンタイムズ」の編集長は、法による殺人たる死刑執行に臨んだのはキリスト教徒としてけしからぬ、また腹切りというイヤな見世物に(西洋人が)臨席したのは恥であると語っているが、それは大きな間違いである、むしろ、自分はこの刑罰を実行させ、立ちあったことを誇りにしている、と。
「腹切りはイヤな見世物ではなく、きわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、・・・はるかに厳粛なものだ。この罪人と同藩の人々は私たちに向かって、この宣告は公正で、情けあるものだと告げたのである。」もっとも、彼が堺事件において一方的に土佐藩兵が無害な非武装のフランス水兵11人を殺害したとしているのは、日本人の報告よりもフランス人の報告を信じたゆえであろう。
しかし、「死刑を宣告された20名中11名の処刑がすんだとき、(フランス)艦長が執行中止の必要があると判決したのは、実にいかんであった。なぜなら、20人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が11人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりもむしろ復讐を好む者のように受け取られるからである。」
この様に書くアーネストは、常に文明国イギリスというものを背後に感じていたようだ。もっぱら通訳者・翻訳者として活躍していた彼であったが、自国人に対しても、他の西洋諸国人に対しても、日本人との交渉に臨んでも、いざというとき毅然とした態度を持していた。
堺事件は、森鴎外の小説で有名だが、鴎外の淡々とした簡潔な文体、三島の言を借りれば、〈冬の日の武家屋敷の玄関先〉のような凛とした文体は、この事件を描くに相応しい。そして、アーネスト・サトウの視点から見て、この事件はなんと日本的な、深い問題を蔵した事件であることかを、あらためて思った。

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