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『神々の沈黙』

   ジュリアン・ジェインズ著 『神々の沈黙』 雑感

 宇宙の広がりは有限なのだろうか、無限なのだろうか。そして宇宙が誕生した以前はなにがあったのだろう。自分はどうしてこの地球上にいま生きているのだろう。灼熱の球体にどうして生命が誕生したのだろう。一体何のために。

 この様な事を考えて、ぞっとしたことがない人は、いないであろう。時に訊かれることがある、「あなたは神を信じますか」と。小生はためらうことなく、信じていると答える。そして付け加える、しかし自分が信じる神は、自然と言い変えても、少しも差し支えがない、と。しかし、よく考えてみると、それは宇宙生成の話まではいかなくとも、目の前にある動植物のあまりに手の込んだ生き方を思うだけで、われわれ人間の知能を遥かに超えたものを感じ、その感じを「神を信じる」と表しているように思う。つまり、自然に対する驚異の念を〈神〉と言っている。

 それにしても、生命というものは不思議なものだ。ぬるくなった地球上のあるときに、海の中で単細胞の生物が誕生した。その後、それは変化し、分化し、進化して、非常に多くの生物種が生じた。それらは捕食しあい、あるいは利用しあい、共生しあいして、いま地球上に何万種の生物が生きているのか知らないが、おそらくすでに滅んでしまった種の方が多いのだろう。

 想像するに、この宇宙には、地球のように、生き物が存在している惑星はたくさんあるのではなかろうか。そして、一旦そこに単細胞が出現すると、生命はその惑星に粘着し、何時しか何万種の異なった生物となって、その環境に驚くほど適した、あまりにもバラエティに富んだ生き方をするようになる。

 とにかく生命がある惑星に、一旦取りつくと、もう何が何でもそこで生き延びようとしているように見える。火山の大爆発、地震や津波、巨大隕石の衝突、繰り返す氷河期などの、あらゆる困難を乗り越えて、生き延びようとしているように見える。だからこそ、生命はあの手この手でいろいろな種となって、そのどれかが生き延びればよいというように見える。DNAはそれを知ってか、たえず新しい変異を生みだしている。それは生命の指令によるものなのか。

 そうして自分は今ここに生きている。自分の属している人間種は、今や地球上でもっとも繁栄している生き物である、かつて恐竜がもっとも繁栄していた動物であったように。われわれホモ・サピエンスもいずれ滅びるのであろうか。

 紀元三万年前~二万五千年前に、ネアンデルタール人が消えてゆき、われわれの祖先ホモサピエンスが生き延びたという。なぜそうなったのか。諸説あるけれど病因説がもっとも納得できそうだ。それにしても、両者の大きな違いは、解剖学上から推定では、言語能力における違いらしい。会話ができるようになって、生活の様々な場面で、とくに狩猟において、ホモサピエンスは圧倒的に有利になった。

 さて、ここからが『神々の沈黙』の著者、ジュリアン・ジェインズの推論なのだが、言葉の始まりは、もっとも重要な行動、つまり狩において、仲間に知らせる「呼び声」だった。そして、その叫びの強さによって、状況を指し示す。その音の差異化、次にたとえば「より速く」というような意味を生ずる修飾語(修飾的叫び)を生みだし、このことが様々な石器を生みだす契機になった。そして、叫びに少しずつ変化が加わり、ついに名詞を生みだすに至る。

 これは、紀元前二万五千年~紀元前一万五千年に起こった。そして、それと軌を一にして、洞窟の壁などに絵を描き始めるようになった。事物を表す名詞は新しい事物を生じさせる。

 ジェインズは、この頃の人間には、われわれ現代人がイヤでも持っている〈意識〉がなかったという。だから、仲間から頼まれた仕事をし続けるには、意識的に持続させることができないので、いわば他動的な誘導が、すなわち〈内なる声〉が、必要であった。その内なる声を、彼は〈幻聴〉というのだが、それは脳のどこかの部分が司っているに違いない。

 そして、この〈幻聴〉こそ神々の起源であるとジェインズは主張する。かつて、おそらく地球上のあらゆる古代民族において、宗教をもたない民族はなかった。そこの人々には、要所要所において、行動を誘導してくれる神の声が聞こえていた。で、この声はどこから聞こえてきたのであろう。

 解剖学的におおざっぱに言えば、いまわれわれの脳においては、(右利きの人間においては)左半球に言語を司る中枢がある。だから、その部分に脳梗塞が起これば、右半身不随と失語を生じる。では、その部位に相当する右半球の領域は何をしているのか。

 ジェインズによると、神々の命令が、まさに右脳のその領域で発せられ、それが、左右脳をつないでいる前交連という神経線維束を通って、左聴覚野に話しかけたり、聞かれたりしていた。そうして、いわゆる統合失調症の人たちが幻聴を聞いている時、同じことが彼らの脳にも起こっているとジェインズはいう。もちろん現代の彼らの聞いているのは神の声とは限らない、いろいろな声である。多くは文化的に規定された優越なる声である。重要なことは、彼だけの耳にしか聞こえないのであり、その言葉はあまりにもリアルなのである。

 ホメロスが書いたと言われる『イリアス』の登場人物は、読んだ人はよく知るところだが、いざという時いつも誰かの神が働いてくれる。ジェインズは言う、彼らに「主観的な意識も心も魂も意思もない。神々が行動を起こさせている。」「とにかく何らかの決断が要求されることがすべて、幻聴を引き起こすに足る原因になった。」「この声こそが意思だったのであり、意思は神経系における命令という性質をもつ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだった。」
 『イリアス』の物語りは、いったい何時から語り伝えられていたかは不明だが、とにかく紀元前10世紀よりうんと以前の人たちには、神々の声が聞こえていた、つまり統合失調症状態だった。

 しかし、いつしか神々の声は聞こえなくなっていった。それゆえ人々は自分というモノを考えざるを得なくなった。自分の時間空間的な位置を、自分の像を、歴史を、〈物語化〉しなくてはならなくなった。このことの過程を、エジプトやメソポタミアの遺文、とくにホメロスやプラトンらの著作と旧約聖書を、とくにその言葉の語源的検討を、ジェインズは長々と述べている。

 どうして神々の声が減衰し、意識が発達してきたか。一つには、脳の左半球優位の人間が、右半球の機能を徐々に習得していった。つまり神々の声の役割を得ていった。交易などで多少多様な人々との交わりにおいて、いわば自分を投影することが始まった。激しい争いが続いた。そのとき、たまたま神々の声に従えなかった人々や、うまく他人を欺いた人たちが、むしろ生き延びた。そういう人たちの遺伝子が広がるとともに、意識を習得する能力が広がっていった。それらは、紀元前二千年くらいから始まったという。

 神々の声の衰退が進むと同時に、人々は幸福な幼年時代のノスタルジアに浸るように、神託・神懸り・預言・占い・憑依などに縋るようになった。そうして、詩もそうだった。
 その時期に、詩はそもそも遠くから神々によって詠われたものだ。つまり古代では、預言者と詩人は分けられぬものであって、もともと語られていたのは、韻文であった。(これには全く同感だ。)古代の詩が、語られうというよりも歌われるということは、詩歌もおもに右半球の働きによるものではないか。

 それで結局、著者は何がいいたいのか。意識はもともとDNAに組み込まれたものではなく、学習されたものであり、抑圧された昔の精神構造の痕跡の上で、われわれは危ういバランスを取りながら生きている。選ばれた人、例えば、統合失調症の人が自分にしか聞こえない声に従うように、われわれも信念をもって行動しうる。古代人の行動と偉人の信念による行動の起源は同じなのだ。もはやわれわれ凡人には、知識の増加とともに思案に迷い、思い切った行動ができない。

 結局われわれの行うこととは・・・。

 エデンの神話とはなにか。神の恩寵の喪失、人間の堕落、失われた純真さ、そういう風に考えること自体が、人類最初の偉大な意識的〈物語化〉としての位置を占める。そうして、著者ジェインズ自身が、この本を書くのも、結局やはり〈物語化〉しようとする営為なのだ、と言っているのは、自説正当化であり、自己卑下でもある。

 なんか、あまりにも、はしょった話し方になったけど。

 この『神々の沈黙』という日本語タイトルの、原題は「The Origin of Consciousness in the Breakedown of the Bicamerarl Mind」だということで、直訳すれば、「二中枢の心の崩壊における意識の起源」とでもなる。訳者は、Bicameral Mind というのを、二分心と訳しておられる。解りやすく言えば、二つの心とは、神々の声と人間の意識ということに他ならない。

 ジェインズの線でいくと、思うに、あらゆる芸術家は神々の領域をもたねばならない。その領域からの声が強ければ強いほど、すぐれた芸術を生むのではなかろうか。それなくしては、いかに作品に苦労の跡が見られようと、まあいわばただの理論すぎない。

 世界中のどこの地域でも、多かれ少なかれ、古代の神ムーサの息吹が蘇る。幸か不幸か、わが国においては、だいぶん薄れてきたとはいえ、つねに神々の微風がいたるところに吹いているのを感じる。それは、たとえば詩歌となって残っており、いまなお多くの人々が、俳句や短歌などをたしなんでいるのみならず、若い人たちも自然に新しい言葉の遊びを楽しんでいる。言の葉の幸はふ国。これが〈やまとごころ〉とか〈日本人的〉といわれるものなのであろうか。

 すべて神の道は善悪是非を、こちたく定せるようなる理屈はつゆばかりもなく、ただゆたかに、おほらかに、みやびたるものにて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける。(宣長)


 
     

     
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