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万葉の歌

 『万葉集』の中でいちばん好きな歌は何って訊かれたら、どう答えようかと空想していたら、ふと出てきた言葉が、「朝影にわが身はなりぬ玉かぎる」なんだね。ところが続き下の句が出てこない。そこで調べてみると、この歌は、

  朝影に 我(あ)が身はぬ 玉かぎる 
     ほのかに見えて 去(い)にし児(こ)ゆえに


 (参っちゃたな、一瞬ちらっと見えたあの素敵な子、どこの子やろ、あの子のことがつねに頭に浮かんできて、もうやせ細っちゃたよ。)

 じつはこの歌は重出歌で、まったく同じ歌が『万葉集』の二か所で出てくるのです。想像するに、たぶん奈良時代にはこの「朝影に・・・」という歌は、若者の間では頻繁に口に上っていた流行語だったのではないのかな。

 『万葉集』が世に出たのとほぼ同時代に書かれた『日本霊異記』にある話で、ある男が野原を歩いていて、いい女に出会った。二人は結婚し子供もできた。ところが、その男の家の犬が女に吠えたり噛んだり。ついにその女は狐の正体を顕して逃げいってしまう。残念に思った男は歌を詠うのです、

  恋はみな我が上に落ちぬたまかぎる
      はろかに見えて去にし子ゆゑに


 (あらゆる恋心が私の上に落ちてきたと思われるほど恋しい気持ちだ、あの去っていった女のために。)

ついでに、面白いのは、女狐が逃げようとするときに、男は言うの、「いつでも待っているから、来て、そして寝ようね」と。女はその言葉(来て、寝よう)を忘れずに口すさんでいるうちに、〈来つ寝〉というようになったとか。 冗談みたいだね。

 ところで、この重出歌、同じ歌ではあっても、原文はどう書いてあるのかを見ると、一つは、

  朝影 吾身成 玉垣入 
      風所見 去子故
 (2394)

 もう一つは、

  朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 
    髣髴所見而 往之児故尓
 (3085)

 だいぶん違います。後の方には、助詞(尓、奴、而)が書いてあって、これ前者の略体歌に対して非略体歌と言って、時代が違うんだそうですね。ま、それはともかく、『万葉集』は、御存じのようにすべて漢字で書かれていて、なかなか難解で未だに解読できない歌もあるようです。

 とはいえ、逆に解読できた歌は本当に解読できたのか、ひょっとして間違っているのではないか、という疑問がありますね。まさにそのようで、いったい奈良時代は、発音やリズムはもとより、じっさいどのようにコトバを詠んでいたのか難しいそうで、今なお専門の先生方が解明にはげんでおられますね。

 本当にどう読んでいたのか、一つだけ有名な例をあげますと、人麿で有名なこの歌、

  ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて
       かへり見すれば月かたぶきぬ


 原文は、東野炎立所見而反見為者月西渡 です。

 『万葉集』が編纂されてから、まもなく(9世紀)仮名文字が発明され、そのころから歌人たちは、『万葉集』の歌の解読をはじめました。いったいそのころは、上の漢字の羅列をどのように読んたのか判っていません。

 白石良夫著『古語の謎』によりますと、平安時代末(1184年)に書写された「元歴校本」では、「あづまのの けぶりのたてる ところみて かへりみすれば つきかたぶきぬ」と読んでいて、その後ずっとその読みを踏襲していた。しかし、江戸時代に入り、学僧である契沖が、東野は〈ひむかし〉あるいは〈はるのの〉と読むべきと提唱し、荷田春満は、東を〈あけがたに〉と読むことを提唱したのです。そして、江戸中期に至って、賀茂真淵が「ひむがしの のにかげろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」と訓じたのですね。学問的にはこの読みはずいぶん無理があるようです。が、この真淵の〈創った〉読みが人麿の歌として相応しい、として以後だれもこの読み方にあえて異を唱えることなく、現在に至っているのだそうです。人麿がこう詠んだという確証はないにもかかわらず。

 要するに、古代の歌をどう読んだのかは、その時代時代の学問的研究成果と歌人らの古代への想いおよび音響的感覚によって決まるように思われます。それにしても、紀貫之をはじめとして、各時代の天皇や藤原家の面々、時の政府高官や僧、江戸時代の国学者は言うに及ばず、鎌倉武士たちでさえ、万葉集の受容・解釈・保存・書写に、何と情熱を傾けてきたのだろうと驚かざるをえません。(その辺は、小川靖彦著『万葉集と日本人』に詳しい)。それはちょうど、ギリシャの学問が、ローマ、中世キリスト教およびイスラム教世界を経て現在に至るまで、いかに大事に保存・解読・書写・研究されてきたかを思い起こさせます。
  
 もちろん、『万葉集』受容には、純粋に学問的動機もあったけれど、大いに政治的にも利用されたのですね。とくに中世においては、天皇親政を目指した醍醐・村上・後三条・白河・二条天皇は言うに及ばす、徳川家康、明治新政府、戦前の昭和政府は、諸本に加えて『万葉集』の保存・普及につとめたのですね。裏を返せば、日本人はそれほど『万葉集』の権威を認めていたと言えます。

 『万葉集』は、天皇から一般人に至るまで、歌数こそ少ないけれど、兵士、主婦、遊女、ちょっとおかしい人、乞食、罪人まで、あらゆる人たちの歌を含んでいて、小生などは、そこが面白いと感じるのです。この、いわば国民的歌謡集という性格は、今なお、歌会始における天皇・皇室以下万民の詠歌をもって新しい年が始まるという伝統に繋がっているのですね。もちろん、歌会始は王政復古を目指した明治政府の叡知によるものですが。

 今の神道は明治政府が創った国家神道だとは、よく言われるところではありますが、小生は、明治政府が創ったいろいろなシステムは、もちろん今となっては修正すべき綻びがいっぱいあるでしょうが、おおむねの所は共感するものです。共感できること出来ないことは、奈良時代に創らようが、明治や昭和時代に創られようが、時代に関係ありません。また、それぞれの時代は、それぞれの困難な課題があったはずで、それを思わずに、そう軽々に批判するものではありませんね。

 わが国の歌の伝統。これは本当に古い話で、そもそも歌は何時から始まったのか。スサノヲ命の「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」か、さらに古いイザナミ・イザナミの唱和から始まったとも。ともかく、わが国は神話が始まったときに歌があった。

 初めに触れた「朝影に 我が身はなりぬ・・・」の歌も、文字の使用が始まったずっと前から、人々は日常的に口にしていたのかもしれませんね。
   


     

     
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