スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

経典の音楽

平安時代の初めの円仁という偉いお坊さんが、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)するときに、どうも声音だけでは面白くないと思って、尺八で伴奏させた。ところが、このお経の中の一節「成就如是功徳荘厳」という所が、うまく吹けない。読誦と合わない。それで、比叡山にあるお堂の南東の扉にむかって吹いて練習をさせていたら、空中で音がした。そしてその音が告げるには、「如是」という部分に〈や〉という音を加えて「如是や」と誦えよと。それで、うまくいったようで、以後〈や〉を加えて誦えるようになった。

 これは、『古事談』にある話です。この話からあらためて思うことは、経典を読むのに、ただ読んでいてはいけない、音程を上げたり下げたり、引きのばしたり詰めたり、抑揚をつけて、場合によっては読み方を変えたり、要するにそれらしい、そのお経の内容にふさわしい歌になるように詠むのがよい、ということですね。

 思いみれば、イスラム教の町では至る所で、明け方などに、あのコーランの一節と思われる文句が歌われているのを、テレビで耳にすることがよくありますね。いや、ぼくはあの歌がとても好きです。アザーンていうのかしら、じつにうっとりさせる、よい声で、われわれの耳にはやはり中東のリズムに聞こえますね。きっと祈っている人は、心から祈っている積りでしょうが、それが歌(音楽)に聞こえるのですね。歌はほんとうに嘘をつかないなと思う。つまり、歌っている内容は知らないけれど、あの節回しはあの辺りの民族のものだな、って思う。ということは、ああいう節回しでもって表現せざるを得ないことこそ、あの民族の魂なんだな、と思う。

 ユダヤ教やキリスト教の賛美歌なんかも、じつに素敵な音楽に聞こえる。とくにキリスト教音楽は、多様に展開して、いわゆる西洋音楽になりますね、その一つのmilestoneは、有名なバッハの「マタイ受難曲」ではないでしょうか。

 ところで、お経ではないけれど、神話はどう語られていたのだろうと想像する。ホメロスの物語は、どういう風に語りあるいは歌い継がれていたのだろう。とても知りたいのは、わが国の上代の人たちは、『古事記』の神話をどのように語り継いでいたのだろう。冒頭の「あめつちの・はじめのとき・たかまのはらになりませる・かみのみなは・あめのみなかぬしのかみ・つぎに・・・」これをどういう風に語って(歌って)いたか。ああ、テープレコーダーがその時代に無かったのが残念だ。

 上代の人たちは、神話に関して、文字や意味の分析に頼って衰弱してしまったわれわれとは全然違う、もっと豊富で直接的なものを感じて生きていたに違いない。文字という、いわば余計なモノを必要としない、語りだけで充溢していた生、日常そのものが感嘆であるような生を、大昔の日本人は生きていたに違いない。

少なくとも、そのような想像をせずに『古事記』を読んでも、その意味だけを捉えようとして読んでいても、それこそ何の意味もない、間違いだらけの捉え方になる。現在のわれわれの陥り易い読み方を捨てて本文に当たるのは何と難しいことかと、30年以上をかけて『古事記伝』を書いた本居先生も口を酸っぱくして仰っています。



     

     
にほんブログ村


    
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。