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青松葉事件 1

慶応四年一月三日、朝廷と結んだ西軍(薩摩・長州軍)と大阪城の東軍(会津・桑名・旧幕府軍)との戦闘が、鳥羽伏見において始まった。ほとんどの諸藩は、どちらに付くか態度を保留しており、また藩内には勤皇派と佐幕派との対立があったという。一日にして西軍が緒戦を制し、その報告が日本中を駆け巡った。
尾張藩は、徳川親藩であるけれど、もともと勤皇派たることを標榜していた。京都で活動中の、尾張藩責任者であり前藩主でもある徳川慶勝と勤皇派の重臣たちのもとに、一月八日、国元からクーデタ発覚の報せが入った。名古屋城内で、佐幕派藩士らが幼君義宜を擁奪し、旧幕府軍に味方参戦しようとしている、との事である。慶勝と重臣らは慎重に検討の上、帰国後ただちに、容疑者十四人を問答無用とばかりに斬首した。これを青松葉事件(騒動)という。
この事件の後、ただちに緘口令が敷かれ、歴史の表から姿を消していった。しかし、その後、本当に名古屋城内で、そのようなクーデタの動きがあったのかどうか、疑いが残った。
明治政府は、明治三年、十四士の遺族に対して、家名の相続が許され、給禄が支給された。また明治二十三年には青松葉事件受刑者に対して、「憲法発布の大恩赦」として罪科消滅の証明書が交付された。
近年、水谷盛光氏の綿密な調査の結果、名古屋城におけるクーデタの動きはなかったらしい、とのことである。慶勝はなぜ十四藩士を斬首したかについては、いまだ暗い闇の中にある。

             

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テーマ : 歴史上の人物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

論旨を展開するのに、あまりに細かいところまでいちい正確を期すると、話がわかりにくくなります。お指摘はありがとう。

No title

西軍に土佐と肥前が抜けてますよ。
あと官軍は薩長土肥の他にも東北や
北陸や九州にもいますのであしからず。

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