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仮名手本忠臣蔵を観る

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を観た。(大きく分けて前半)

何時ごろからか歌舞伎の観客もクールになって、せっかく役者が見えをきっても、「成駒屋!」だの「松嶋屋!」だの掛け声を掛けなくなったな。拍手はするけど。みんな恥ずかしいのかな。ってことで、小生はいつもここぞというところで声を掛けてやる。

ところで、これを観ながら浮かんできた二つのこと。

一つは、やはり幕府の秩序維持コントラ庶民の感情。この演劇があの赤穂浪士討ち入り事件後40年以上経っていたとはいえ、また背景を南北朝の時代設定にし登場人物の名前も変えていたとはいえ、誰が観ても赤穂事件だと判る、にもかかわらず幕府は上演を許可していたということそのことがすでに文化というものの何たるかを表しているのかな・・・ともあれ、

法を曲げてはいけない(徂徠)も尤もだし、四十七士は主君への忠義をよくぞ守ったというのも尤もだし、将軍綱吉は四十七士の処分を即決できなかった。そこで寛永寺の何とか親王にお伺いをたてにゆく。義士らの行為に共感していた親王ではあったが、曰く「四十七士は切腹にすべきでしょう。そうすれば忠義の物語として世の鏡となって残る。もし生かしておいて、後に一人でも汚濁にまみれるようなことをしたら、光が消える、残念である」などと。それで綱吉は決断したという。
この親王の解決はじつに深慮である。美学的解決である。われわれ人間が生きている所在を、それによって生きている世界を明らかにしている。ここにロマン主義の面白さがある。三島由紀夫の切腹に通じる解決だ。

もう一つ浮かんできたことは。
忠臣蔵は、平たく言ってしまえば、親分同士の喧嘩を子分が復讐した事件に過ぎない。浅野内匠頭が、かっとして刀を抜いた。そのとき自分を失っていた。激情の波にさらわれたのだ。ところで、かっとして前後を忘れるようなことをしたことは、誰でも一度や二度はあるだろう。このとき、自分とは何か?波に飲まれたというよりも、強い感情そのものが自分ではないのか。翻って普段経験している自分とは何なのか。そのような実体があるのか?じっさいは、知覚や記憶といったあれこれの映像(形や色彩)、音、臭い、が去来しているだけではないのか?快いあるいは苦い様々な感情が流れているだけではないのか?一定不変の自己などとは、実体のない記号に過ぎないのではないのかな?・・これは実にフュームの懐疑したところだ。このいわば自己解体に対して、やきになって一つの解決を与えたのがカントだったか・・。西洋にはなんでこんな自己とか神とか時間とかなどという問題に一生を費やすほどの哲学者が大勢いたのか。この真っ直ぐに、そして執拗に問う姿勢は、ほんとうに凄いな。まねできないね。




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