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バッハ『マタイ受難曲』を聴く

友人のK君が『マタイ受難曲』のチケットが一枚あまった、あげるというので、もらって聴きにいった。
演奏の難点は多少はあるにしても、小生を感動させるには十分であった。休憩時K君は一人で孤島に一枚のCDを持っていくならやはりこの曲かなと言った。
家に帰って食事しながらも、曲は胸のうちで繰り返し鳴り続けた。もちろんこれはバッハの音楽の力によるものだ。 

学生時代に、先年亡くなったアーサー・クラークの『Childhood`s end』を読んだことを思い出す。宇宙の主によってついに人類が進化する、そのとき地球はオーロラのような強烈な光の乱舞に見舞われる。この地球最後の嵐の中で主人公がオルガンで奏でるのが、バッハの曲なのであって、小生は「ああ、じつにこういう時こそバッハだ」と共感したことを思い出す。

『マタイ』を聴いてやはり考えるのはイエスという人である。あの当時のあの地域の人々がこの男にひどく感動したことは事実である。「私は地上に平和をもたらすために来たのではない。剣を投げ込むために来たのである」「母や兄弟を捨てて私についてきなさい。・・・天の父の御心に従う者はすべて母であり兄弟ではないか」 こんなことを口走りながら、律法を破り、己の刑の重さや命さえ考えず、決して浮かばれることのない最下層の人々に慰めを与えるこの危険な男を、常識的なユダヤ人は許さなかった。
小生は、多くの人と同様、やはり侮蔑的な意味合いを込めて〈神学論争〉と言う。イエスの死後三百年あまり、この男は神であったのか人であったのか、われわれにはどう考えても訳がわからぬ正統派と異端の論争の紛糾は、ついにローマ皇帝による決着を必要とした。しかしそれでことが済んだわけではない、その後もその問題で殺し合いさえ続いた。
いまなお延々と尾を引いていることは「ダヴィンチ・コード」などで知られるとおりだ。
いったいこの男イエスが神か何かという議論でどうしてこんなにもめるのか、とふと思って、小生はヨーロッパというものを一瞬理解したと思った。

われわれ人間は問い詰めていくと、どうしても神(超越的な絶対善)という問題に突き当たらざるを得ないのだ。ここから多くの罪とか宥和とかに関する問題が発生するがここでは省略。ただ、日本人は、500年まえにザビエルが布教に来て以来、キリスト教があるということを知ってはいるが、なぜか真剣に考えたことはない。それだけわれわれ日本人は長い間、無菌的なよい環境に住み続けてきたのか? しかし、これからはどうなのであろ・・・。



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