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マインドコントロールの効用 7


 マインドコントロールの話がえらく逸れてしまった。それにしても、コントロールされている〈この私〉とは一体何か。そもそもこの私なるものがあるのか。私と思い込んでいるだけではないのか。思い込んでいるだけでも、思い込んでいるこの私というものがある、とはデカルトの確信だ。いや私という主体はない、じっさいあれこれの映像や音や感情の変容があるだけで、〈私〉と人が言いたいものはいわば知覚の束あるいは感情の変化に過ぎない、とはヒュームの言い分だ。そうなれば、自己というものはない、自己というものがなければ、責任も発生しないし自由も問題になりえない。しかし、現実にはそれらこそ人がけっして逃れることが出来ない問題だとして、一つの解決を与えたのがカントだったか。われわれは性質をもった物質がすでになんとなくあるのをただ漫然と見るのではない。われわれがこの世界に働きかけることに応じて世界の諸相が浮かび上がるのである。経験世界は、それに先立つわれわれの先験的能力によってのみ成り立つのだ。・・・
 それでこの私といわれる一種の力はいちおう置いておく。私は私というそれが何であれ、近々この世を、というより、この肉体を去ることは確実である。私はとりあえず、この両親から派生した肉体を利用し、この両親にいわゆる肉体的にも精神的にも育てられ、この時代のこの地域のこの環境に生きている。だれでもそれぞれがそのようであろう。であれば、誰でも他の誰でもない唯一の存在だ。誰でも独創的な存在であるはずだ。それなのに、なぜ人はすべての人を同じように考えるのか。
 一本の木の桜の花を見て、人はこの桜あの桜と一々言わない。すべて桜の花である。よくよく見てその一つ一つの花について語るときは、その個別性特殊性を見ている。しかし普段人と話をしているときは花一般でいい。犬を見てもそうだ。コップを見てもそうだ。考えてみれば、ものの名とはその有用性を名づけた名である。日常生活においては名が多すぎるのは有用ではない。詳しく〈そのもの〉に注意を注ぎ続ける限り、一般名から遠ざかり、煩雑詳細になって有用ではなくなる。
当たり前かもしれないが、言葉はとてもこの世的なものだ。つまり有用性そのものだ。要するに道具である。しかし、この有用な道具を非有用、すなわち個別性特殊性に迫るような使い方をすることがある。それは端的に詩であり歌であり、俳句だ。ようするに芸術だ。それは、その時の独特のニュアンスの追及だ。それは全くの空想ではない。現に世界にあるものだ。それは世界のある秩序に属している。それはふだん秘められている。あちらこちらにあるのであろうが、絶えず有用性を目指している人間には見えてこないだけだ。そうでなければ、芸術家は苦労することはないであろう。


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