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勾玉考3

 ところで、本居宣長は、小生のように現物の勾玉の形や美しさに決して躓くことなく、―そういうことを宣長は〈私事〉と言うー例によって古代の文献において勾玉なる言葉がいかなることを意味しているかを徹底的に言語実証的に考究している。

 例えば―

 八尺ノ勾璁のヤサカとは弥栄(イヤサカ)ではと思うが、生き物ではない玉のごとき物に使っている例はあまりなさそうだ。漢籍には七曲がりの玉に緒を通したものがある、その七曲がりを引きのばせば、八尺になるから、それを言ったという説、あるいは八坂という地名のことを言ったという説は、どうもそういうことは考えにくい。勾璁は、古代遺跡からちょくちょく発見されるあの曲がった玉のことをさしているから、曲玉と言ったのかもしれぬ。しかし勾玉の勾を曲と解することは、あまりに漢字に捉われていて、古意から外れている。『日本書紀』にはそのような漢文風の誤解が多い。それに、しばしば発掘される曲がった玉など、一般なるものであって決して特に美しいわけではない。天照大御神からこの地へ降臨する神へ受け渡されることから考えるに、八尺ノ勾玉とは世に優れて美しいものでなければならない。文字(記号)に捉われなければ、勾(マガ)とはマカガ(目赫)をつづめた言葉で、目もあやな、美しく輝くという意味ではないか、曲がっているなんてとんでもない、云々。

 宣長の言語実証主義とは、例えばこのようなことであって、彼はいわゆるフィールドワークをした人ではない。言語以外の情緒的要素はむしろ余計なことであった。伊勢の松阪に居て、入手できるあらゆる文献を渉猟した。言葉・言葉・言葉。そこから彼は上代の人のこころを発見した。もちろん、その前に賀茂真淵との邂逅があったからではあるが。

 おそらく宣長にとっては、八坂の勾玉はそもそもの初め伊耶那岐命から天照大御神(この御名はすべてを隈なく照らす太陽の輝きでなくてなんであろう)に渡された首飾り、そしてこの世に降りる際ニニギノ命に伝えられ、久しく天皇家に伝えられている、類まれなる尊い玉であって、それが皇室に流れる明るさ・美しさの根拠となっているものだ。

 その玉を誰も見たことはないかもしれないが、あの物語を生みだし、信じ語り伝えてきたということは、上代の人々の視覚中枢が絶えずその輝きに照らされていたということにほかならない・・・。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

勾玉考2

 そもそもの初め、大火傷を負った伊耶那美命(イザナミ)は黄泉の国に行った、そしてそこから出てこれなかった境が出雲であった。そして、母のいる出雲に行くと言いに来たスサノヲ命に対して、アマテラス大御神は待ち構える、その時の武装として〈八尺の勾瓊〉(勾玉を通した玉飾り)をしている。この装飾はそれほど強い力をもっているのか、あるいはアマテラスの光り輝く威厳を示しているのか、ということであろう。

 そして散々罪を犯したスサノヲは出雲へ行く。そこでヤマタノオロチをやっつけて、後に名づけられる草薙の剣を得る。この話は、出雲は製鉄の拠点であったことを物語っているという説があるが、とにかくスサノヲは出雲の地に宮を建て、住む。そして、オロチから救われた櫛名田媛(クシナダヒメ)との間に生まれた子の子孫が、大国主神(オオクニヌシ)である。そして、オオクニヌシこそ、人も知る出雲大社に鎮座している神である。

 『日本書紀』一書によると、オオクニヌシが天界の神々に国譲りをしたとき言うには、「あなたがたの仰ることに従わざるを得ないでしょう。これからは、顕界はあなたがた皇孫(アマテラスの子孫)が治めてください。私はこの地から去って幽界を治めましょう」。そして八坂瓊(やさかに)を被って身を隠された。出雲歴史博物館の資料によると、この〈やさかに〉が勾玉であるという。とすると、勾玉は幽界での霊的な力を与えるものか。ちなみに同書には、「律令体制が進められる過程で、新しい古代国家にとって伝統的な玉は不都合なものとされた」と書かれている。

 そもそも玉は魂(タマ)を象徴するものであり、魂に対する感覚の変化は、玉に対する好みの変化を引き起こしたであろう。あの縄文の森林のような緑から、弥生時代の出雲の透明な淡い赤褐色への移り行き。たまたま出雲で瑪瑙が採れただけの事であるのだろうけれど、あの勾玉の形と言い、透明感と言い、色と言い、肌理と言い、それは孵化したばかりの透明な海の生き物の、その全身に赤い血潮が広がっていく様を彷彿とさせる。それは上代の人たちの生命感覚の変化とは言えまいか。そのような幻想に悩まされる。

 小生は思うのだが、水晶玉に多く見られるように、まんまるい球形だったらどうだろう。まったき球は完結のイメージを与えないであろうか。それは仏教的諦念あるいは休止による天上的平和を想わせる。勾玉のあの曲がった形は、小生をして運動の観念に導く。もちろん管形も、これがもっとも多い玉形だと思うが、球形に比べると、運動的ではある。が、それは直線であり方向が定まっているがゆえに、いわば予見可能であり生命的自由がない。勾玉の曲線は運動する生命の力、この世のわれわれにとっては思いがけない方向性、それはある見えない世界からの力であることを暗示する。

 要するに、出雲は幽界であり、そこからこそ、われわれ人間が生かされている顕界に対して、魂の圧倒的な力を振るい続けている。それを上代の人たちは、しかと感じていたのであり、いわばその証明としてあの形―勾玉をもっていたのではなかろうか。 
   つづく


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テーマ : 工芸 - ジャンル : 学問・文化・芸術

勾玉考1

 この二年くらい、時々頭に浮かんでくるものの一つに勾玉がある。とくにあまり色の濃くない透明度の高い瑪瑙のものがイメージとして浮かんでくる。今朝も夢か現かの境にそれが浮かんできた。

一昨年、出雲大社を訪れた時、その隣にある古代出雲歴史博物館で見た、それは美しい翡翠(ヒスイ)と瑪瑙(メノウ)の勾玉を忘れることはできない。出雲はすでに弥生時代から勾玉の一大生産地であり、―何と言っても出雲には〈玉つくり〉という地名があるくらいである―、今なお毎年、出雲から天皇家に新しく作られた勾玉が献上されていると聞いている。

 玉つくりで思い出したことだが、出雲に行くなら玉造温泉で泊まろうと思い、ネットで一番大きな温泉がある宿を予約した。大社などを観て、ようやく暗くなり始めたころ宿に着き、さっそく温泉に浸かった。たしかにプールのように大きい。誰もまだいない。気持ちも広々と大きくなってとりあえず泳ぎまくった。この温泉は、男湯と女湯の入口こそ別々であるが中はこのプールで一緒になっている。これは僥倖だと思い、のぼせないように岩の上で休憩。湯気の所々がライトで照らされた闇のなか、薄眼を開けて待つことしばし、おっ、女性方から誰か入ってくる。ゆっくりこちらに向かってくる。心臓が打つ。と、男側からも誰か来る。・・・なーんだ、おじいさんとおばあさんだ・・・。二人は小生の休んでいる岩のあたりに来た。暗いが顔は判る。無言であいさつをする。二人は並んで胸元まで浸かり、ぽつりぽつり旅の話を始めた。老夫婦だ。小生は洗い場に行って、またこの岩に来た。まだ二人は岩のあたりで並んでいる。ときどきおじいさんが小声で話をもらしている。・・・

・・・そのとき、じわりっと感動がやってきた。いったいこの老夫婦の、何と言うか、安らぎ感と言うのか、長年連れ添ってきた安定感、何事が起こってもぐらつかないような、一つの溶け合った根から生え出た二本の巨木のような、自然の大地にしっかり根をおろした安定感、これは何だ!というような感覚に襲われたのである。

 この安らかさ。あらゆる野心もあらゆる落胆もその前では恥じ入らざるを得ないような完たき自然的充足。一切の瑣末事の消去。小生は、謡曲『高砂』にいわゆる老松の伝説の由来が明らかにされたときに続く、あの有名な祝言「四海波静かにて、国も治まる時つ風、・・・」の根本義が解ったような気がした。

 その後、時を経て、その印象は、小生などがいくら憬れても決して近づけないような、しかし戒めの力の一点として記憶の中に座を占め、輝きを放っている。

 勾玉に話をもどそう。
 縄文時代にすでに人々は、動物の牙や骨あるいは粘土などを利用して、装身具を作っている。アフリカやアマゾンの土人など、新石器時代を生きているような人々がアクセサリーをしていることからも類推されるように、われわれを含めあらゆる人種が、言語を含め人間としての特徴を見せ始めたその時から、おしゃれは始まったと思われる。

 しかし、それはわれわれ現代人が言うおしゃれというばかりではなく、呪術的な意味、たとえば邪悪な物から身を守るという意味合いが強かったのではないだろうか。つまり、今の諸概念から言うと、もっと未分化な方略であったであろう。そして今でも、おしゃれをする自分の心理を分析してみると、いわばその残響を感じないであろうか。

 縄文時代には、耳飾りや首飾りと思われるいろいろな形のものが、遺跡から見つかっている。北陸地方では、やはり翡翠製のものが目を引く。弥生時代になると、大陸や半島の影響からか、1cmくらいの長さの管玉を連ねた形が多くなったようだ。

 弥生時代から古墳時代にかけて、出雲地方が圧倒的産地になり、したがってここで採れる碧玉、瑪瑙、水晶が中心的玉となって、豆形やそろばん形も多くなり、大和王権のあったと思しき地方でも生産されたが、ここは間もなく衰退したらしい。

 仏教が伝来したころ、大和王権は石製からガラス製や金属製を好むようになったらしく、律令制の整備と共にいわゆる古墳時代が終焉を迎える。それとともに玉の生産も終わりを告げたのであった。以後は奈良時代になって国家的祭祀や寺院の鎮壇に必要な物としてのみ(?)玉を使用したらしい。
 
 で、小生がもっとも気になるのは、あの勾玉の形である。縄文人から平城京までの、いろいろな素材や形の玉を、写真でつらつら眺めてみていると、基本的に現代のネックレスやブレスレットや数珠と変わらないのだけれど、ペンダントにあたる部分や所々のポイントは、やはり曲がった玉(勾玉)なのである。

 縄文時代にランダムにいろいろな形が作られたうち、生産拠点が出雲になるにつれ、この曲がった形が珍重されていったのではないだろうか。それは、出雲という土地と関係しているのではないだろうか。
 つづく


                
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テーマ : 工芸 - ジャンル : 学問・文化・芸術

山道を上りながら

 昨日、高山市飛騨一之宮駅のすぐ側にある臥龍桜を見に行った。樹齢千年という江戸彼岸桜で、花びらが小粒で揃っている。幹はもともと龍のように横にうねっていたらしいが、首のあたりが折れて、わずかに残るその朽木が往時の姿を想わせるばかりである。

臥龍桜  P4290782.jpg


 花はちょうど見ごろであった。緑の草が鮮やかな山裾に立っていて、背後は杉林、片方は寺の小奇麗な庭に続いている。前は公園になっていて、あちこちにベンチが設えてある。柵のため臥龍桜には近づけないのが残念だ。高山線の線路沿いであるため、電車に乗っている人も車内からカメラをこちらに向けている。しかし思うに、この時期を過ぎてしまえば、この山裾を気にする人は誰もいないであろうし、いったいこの無人駅に停まる電車は一日にこれくらいあるのだろうか。


 近くの仮設売店辺りから民謡風の音楽が流れ、焼き鳥のいい匂いが漂ってくる。毎春毎春いったい何年ぐらい前からこのような店を開いているのだろう。三十年?百年?五百年? 舗装道路も車も鉄道もなかった明治末以前は、この山間の桜を見に来る人がどれくらいいたのだろう。

 お寺の横に幅三メートルくらいの道があって、上り坂になっている。右手は山、左手は一段低くなっていて畑や雑木林になっている。坂の上の空はほとんどが雲である。暑くもなく寒くもなく、風もない。するとその景色が子供の頃から親しかった絵のようで、一種の懐かしさが胸をよぎった。

 同じような景色を前に見たことがある。そしてあの坂道を上まで行ってみたくなった。2・3分上っていくと、平地となっていて、畑と数軒のありふれた新しい家が並んでいた。この道は左にカーヴしていて、たぶん国道に通じているのであろうと思うと、なんか気が抜けた。それは夢が裏切られた感じであった。

 この一種の懐かしさというのは、子供のころ見た景色が蘇ったというよりも、絵本などに描かれた風景でこの山道の向こうに何かあるという期待感が蘇ったことだと思う。それはずっと向こうに続く田舎の道の向うの方への憧憬とか神秘性、引かれる気持ちであって、もし大人になって、あるいは地図を見て、現実の状況やよく知っている道との繋がりを知ってしまうと、消えてしまうものだ。

 子供らしい夢のような憧憬は、空間ばかりではなく、時間的にも同様のことが言える。たとえば、「むかし、むかし、あるところに王子様と御姫様がおりました。…二人は、紆余曲折の末、結ばれました。めでたし。めでたし。」その〈昔〉とは、とにかく「昔、昔」でなければならないのであって、歴史上の紀元何年の人物であることが判ると、興が冷めてしまうのである。

 神話や民話が歴史事実に還元されてしまうと、夢は消える。天照大神の岩戸隠れの話は、三世紀に起こった日食に卑弥呼が驚いた話にすぎない。ニーベルンゲン物語が、六世紀のメロヴィング朝の事件にすぎない、となったら。

 しかし、物語の面白さの本質を支えているのは、われわれの憧憬のほうであり、それを引き出す話者の力である。ホメロスが描く、神々と英雄たちが入り混じって戦うトロイア戦争の面白さは、「ドラゴンボール」の面白さと同じである(古ーぅ)。もっとも、ホメロスの文章の美しさは、地中海の明るい午前のきらめきのように、翻訳を通じても伝わってくる。

 空間的あるいは時間的にすべてが判ってしまったら、つまり、ビッグバン以来の宇宙の歴史や広がり、太陽系の位置や地球の地質学的変遷を経て、世界の地図の中に、あるいはここ何千年の年表の中に、すべてを置いて見る視点を獲得してしまったら、そのとき夢は消えるのだ。

 とにかく漠然たる「昔、昔、あるところに…」や「山のあなたの空遠く…」がなければいけないのだ。
しかし、現実にはわれわれには、決して夢は消えやしない。現に科学者や歴史家が絶えないゆえんである。彼らの活動の源泉には子供時代の憧憬がある。

 ということは、そもそもモノが判るということは、いわば坂道を上っていて歩みを止めふっと後ろを振り返って見える景色のようなものだ。その時はそう見える。しかし、さらに登って降り返ればまた違って見える。と考えれば、坂道を上がる推進力が憧憬であり、文字通り夢見る力であって、モノが判るということは休止のことではなかろうか。

 大人になっていろいろ世間が判ってくる。なーんんだ、世間はこんなものか、と思う。しかし、それはじつは一時休止にすぎない。世間は決して「こんなもの」ではないのである。判ったと合点しても、あるとき思わぬ角度から、また違った面が見えてくるものだ。決して公式はなく、もし公式で止まったら、それは憧憬という力の枯渇である。生きるということは、なぜか知らないが背後の推進力に押され続けていることだ。



                
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

宇宙飛行士

 昨夜ラヂオを付けたら、女性宇宙飛行士の山崎さんのインタヴュー番組をしていた。インタヴュアーが山崎さんに、宇宙ステーションでもっとも印象に残ったことは何ですかと訊ねた。
 
 山崎さんは二つのことが特に強く残っていると答えられた。一つは無重力という場での生活、そしてもう一つは地球の美しさということであった。

 無重力での共同生活は非常に合理的であって、例えば山崎さんが板の上で料理(?)をしていると、その板の反対側でもう一人が文字を書いている。睡眠をしていると、他の人は空いた所で立って寝ている。じつに狭い空間を合理的に利用できるなどと、仰っていた。

 想像するに、無重力の生活は、われわれ地上の重力に厳格に規定された生活に比べて、とても自由で空間の利用という点で、文字通り大きな余地があるのであろう。
 われわれ地球生活者における視覚上の〈上〉とは、重力の反対方向という意味であって、重力の無いところで生まれ育ったならば、あり得ない語である。宇宙では上下という概念が不要となり、行動には違う概念が必要となろう。

 地球の景色の美しさは、これまたわれわれが地上で語る景色とは全く異なるであろうと想像する。山崎さんは、宇宙では大気がないから、他の天体の光はダイレクトにやってくる、夜の地球は都市の明かりがそのまま見え、日本列島はまさに地図の通りの形に光で縁どられていた、と語っておられた。

 だから、太陽もくっきり見えるが、その周囲は漆黒の闇である、そもそもこの地球上においては、闇の黒さは色に色を重ねての黒さであるが、宇宙の黒さは〈まったくの黒〉であって、あらゆる光や色彩を順次無くしていった末の黒さだ、というような表現をしておられた。

 このお話から宇宙の真っ暗闇の中に地球や太陽がそこだけ輝いている様を想像する。天体自体しかない、それ以外はまったくの無というような黒。どう言ったらいいんだろう。パスカルの「この宇宙の永遠の沈黙は私を震撼させる」という言葉すら、地上的に思えてくるような、極端に抽象的な黒の恐怖。

 宇宙ステーションでの生活が、われわれ地上的概念の束縛を解き放してくれるものなら、山崎さんにぜひお訊ねしたいが、そこで生活するロシア人欧米人日本人らは、国家的エゴイズムからの自由なんてことも幾分かは垣間見せてはくれるものだろうか。
    
                 

            
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テーマ : 自由への道程 - ジャンル : 学問・文化・芸術

自然災害

 今朝の新聞で、二年前の秋葉原連続殺人事件の犯人が死刑の判決を受けたという記事を見た。被告の行為は人間性が感じられず、という見出しであった。その人間性とは、被害者やその家族、友人らの悲しみや怒りを思う心のことであるあるらしい。

 小生は、非人間性についてもっと違う意味にとった。すなわち、あの秋葉原事件は、人間がやったことではない、むしろ自然災害ではないのかと。それは、あの秋葉原というまさに文明の頂点をなす一角、市民の自由と喜びと欲望にあふれる人工的な場所に、自然のまったく不可思議な領域からの突然の攻撃という印象をもつからである。

 被告の生い立ち、他人と折り合いにくい性格、怒りっぽい性格、それゆえにいじめを受け易い性格、己の主張をうまく他人に伝達できず、それでもなお他人に訴えたい衝動を抑えることが出来ず、あのような行為に走った。もっともらしい説明だ。きっとそうなのであろう。しかし、そのような彼をしてあのような大それたことを為さしめた力を小生は感じるのだ。たしかにあれは狂気である。そして狂気は遠いところから文明人の心に執り付くように感じるのだ。

 もちろん、だからと言って、彼に責任はないということではない。そもそも責任とは。死刑に処するということによって、社会が法的手続きに基づいて彼に復讐するのは、今の社会において当然である。しかし、それでどうなることでもない。新たな事件の予防になるわけではない。われわれにはどうすることも出来ない。

 このたびの東日本大震災などの、自然の圧倒的な力の前で、われわれわれはどうしようもないのを感じる。その力と同じではないか、あの被告の心の中に吹き荒れた風は遠い自然からやってきたのではなかろうか。

 われわれは、こういうとき、凶暴な自然の力の前で、泣いたり祈ったり贄を神に奉げたりした、あの古代人たちの心的状況の幾分かを呼び起こしているのではなかろうか。



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テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術

東北関東大震災 2

今日はまた寒の戻りで、被災された方々は暖をとるのに、大変苦労されていることでしょう。心からお見まい申しあげます。

また、昼夜を問わず、懸命に復旧作業に従事されている自衛隊員、警察官、各種レスキュー部隊の方々には頭が下がります。

そして自衛隊を暴力装置と蔑んだ仙石前官房長官に、男なら腹切れと言いたい。
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テーマ : 東北地方太平洋沖地震 - ジャンル : ニュース

東北関東大震災

このたびの大震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。





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観念の恩恵1

0とか無とかの周辺をさまよっていた時、われわれはなんと観念世界に支えられているか、ということにあらためて気付いた。

 幾何学の世界はすべてが明瞭にそうである。例えば点とか線とか。点は位置があって大きさのないもの。線は長さがあって太さがないもの。これらは誰でも明瞭に理解するにもかかわらず、厳密に描いた人はいない。たとえ頭の中でさえ描けない。

 直線とは真っすぐな線のことだ。これを考えようとするとわれわれは自然に空間を思い描く。光はまっすぐに走るように見えるが、決して真っ直ぐには走らないことを現代人は知っている。現実には光にも重さがある。それゆえ重力によって曲げられる。宇宙はいたるところに重力が働いている。それを科学者は、空間が曲がっている、と表現する。

 では、何に対して空間が曲がっているのか? それは、われわれの頭にのみ存在する空間観念=三つの直線からなる直交座標に対してだ。そしてこれがなければ、われわれは物理的現実を記述するのが困難である。

 民主主義という言葉がある。民主制の歴史とかロックだのホッブスだの、また難しい議論を離れて、民主主義が万人の平等を前提としているとしよう。では万人の平等とは何によって保証されるのか。それは、法の前での平等というかもしれない。

 では、その法とは何か。万人は平等であると法に書いてあるから、万人は平等なのか。そうであれば、もし法にそう書いてなければ、あるいはそのような法を掲げなければ、万人は平等でなくなる。きっとそうであろう。(実際そんな野暮なことを法に謳っているのかどうかしらないけれど)

 しかし、現実政治において、平等ということがありえるであろうか。というか、平等とは人によって規制が異ならない状態というなら、その実現は困難であろう。男と女、大人と子供がまったく同じというわけにはいかないであろうし、健常者と非健常者も同じ条件でというわけにはいかないだろう。法はそこに、いろいろな付加条項を付け加えなければならないだろう。

 無条件で万人は平等ということを具体例を持ち出して云々することはできない。しかも万人が、万人は平等である(べき)と口にするとなると、それは現実を超えた共通理念であり、個々の人間や集団を超えたある超越的絶対的観念―たとえば神というーに照らしてのみ、そういうことが言えるのではないのだろうか。

 もし、そういう絶対者をもたない場合、現実生活はどうか。われわれは、たとえば自分が自分であるこの感覚を他人に感じることはできない。絶対に他人と自分は違う。他者は外部にあり、自己は内部に感じる。ほかの人たちを数えることが出来るが、自分を数えることはできない。鏡を見ても無駄である。要するに他人と自分と同列に置くことはできない。人は生まれてからこのかた、他人と同じように振る舞うことを教えられてきた。それが社会生活というものだ。それで何となくうまくいきそうだからそれでいい。が、それだけのことだ。自分であることのこの感覚は、他人が居ることと共通では決してない。人は自分から外に出ることはできない。となると、万人の平等は、理論的に、そのような自と他を超えると想定される絶対的地平を必要とする。ここからのみ平等観念が、つまり例えば自他を超える超越神の前における平等が達成される。

 もし絶対的地平がなければどうなるか。
 それを欠いていた以前のわれわれは、こう言ってよければ、他者と共に生きることに専念するしかなかった。閉ざされた、いわばムラ社会内での自己滅却、無意識における闘争への恐怖、それを和らげる話しあい、駆け引きの中断、談合、絶えざる休戦・・・。

 欧米人と日本人と比べると、日本人は昔からなんとなく民主的であるし、いい意味で法治主義が苦手であるように見える。しかし、西欧化と都市化が進むにつれ、だんだん長所が弱点になってこなければいいが。
 
     
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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

無の発見

 仏教の教えと言うと、あまりに末広がりに広がって、何だか漠然として、小生の頭ではどうも掴みきれない。バラモン教やヒンズー教の広大な背景から生まれた教義は、一見相反するようなものが複雑に入り組んでいる。また、仏陀の千年以上のちには、日本でも新しい解釈による諸派が生じ、われわれは死ぬと僧侶に経を読み聴かされる。

 適当な概論書から想像するところによると、仏陀の教えのエッセンスは、何といっても〈無〉ということになると思われる。これは、猛烈な思想だ。何というか思想にならぬような思想だ。ゼロの発見がインドでなされたと聞いているけど、この〈無〉の発見もインドでなされたというのも、それと符合しておもしろい。

 人も知る、ゴータマシッダルータは、王子に生まれながらも、早くから病・老・死をいたく恐れ、この世は「苦」以外の何物でもないと思い込み、出家した。そうして到達した最初の発見が「無」ということだった。

 だが、「無」とは何か? こう問うことによって、小生はすでに躓いているような気がする。何故なら「無」ということを考えようとしているからだ。まあいい。そのまま考えることにしよう。

 「何もない状態」ということを、考えることが出来るだろうか。ノーである。まず、単純にこの物質宇宙を思ってみると、音もない、重力もない、光もない真っ暗な箱の中を想像しよう。これは無であろうか?
しかし、そこにはじっさい無数の素粒子が飛び交っている。またいかに箱が軽いとは言っても、それによる重力は消せない。その箱の重力の中心に位置しても、実は宇宙は永遠にじっとしていない。動いている。しかもそれは等速とは限らない。つまり重力は変わる。

 おそらく、現実には、この物質宇宙においては、「何もない状態」はないと思われる。では、観念の世界に飛び移って、今考えた素粒子や重力やらを、頭の中で消去してみよう。つまり〈ない〉と考えてみよう。その場合、われわれは何を思い描いているであろうか。あらゆる物がない世界を思い描いているか? ノーである。なんかしーんとした真っ暗闇を思い描いている。つまり、暗闇が「ある」のである。
 では、この暗闇を消してみてください。

はい、消しました。
おっと、そのとき何がありますか? 
何にもありません…。真っ暗闇も思考から消してしまいました。
じゃ、そこには何がありますか?
何もないですね。
ならば、「無」に到達しましたね。おめでとう。

 しかし、そうなると、それはまったく考えることができないあるものであり、・・・つまるところあるものですらない。もはや言葉だけだ。「何もない」や「無」は「ただの言葉」にすぎない。

 われわれの言葉はおもしろいもので、初めの経験を遥かに飛び越えて、経験できない領域に観念を拡張する傾向がある。

 この場合、初めの経験とは、われわれが無いという言葉を実際使う場面を思い出せばよい。

 たとえば、この部屋にはなにもない、と言うとき、それは、いま話題にしている物がない、あるいは関心のあるものがない、ということである。それは、在るべきものがない、つまり「在る」+「不在」=「無い」、つまり、「在る」<「無い」なのであって、この部屋にはなにもないというとき、「在る」-「在る」=0ではなく、必ず「在る」を前提にしていて、それに「不在」が加わるのである。

 現実問題として、「普段この部屋にはなにもない」とわれわれが言うとき、空気や光や暖かさがあるが、そのような物は問題にしていない、ということである。つまり、「在る」とか「ない」とかは、ただ関心を示す言葉である。

 では、超越的観念とでもいうべき「無」は・・・・?

 ところで、仏陀が語ったとかいう「無分別智」とか「無実体」とかは、現実の一線を越えた無に限りなく近いのか・・・。

 分別が無い知恵。われわれが普段口にする、大きいとか小さいとか、よいとかわるいとか、それらはわれわれが物事をそのように分けるから、そう言えるのであって、それらは実際分けられないものであるし、また相対的であって、自然の分節ではない。われわれの日常生活はあくまで便宜的なものだ。

 そんな区別は、いわば夢まぼろしであって、実は何にも無いのだ。ということは、実体とか分別とかは、無という大海に浮かんだ人工島のようなもので、無に支えられているということを知らなければならない。そのことを知った上で、普段の分別の知があるということを知らねばならない。

 このことに即して言えば、この世は無常であることを悟るには、無常でないものを何か指し示すことができないが、それを悟らなければ、この世の無常を知ることができない、ということになるか。

 無実体も同じだ。本来何もないのに、人は実体を云々する。しかし、その実体を語っている実態は無実体に支えられている。

 では、その「無」って何? 人は経験できないものの前では沈黙を守らなければならない(笑)


 なんか禅問答みたいになってしまったが、こんな言葉を思い出した。

 「あまりに現世的な人は、現世そのものすら理解することはできない」
(チェスタートン)



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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『鈴屋問答録』

これは56項目にわたる様々な質問に本居宣長が答えた記録集である。その中で、南川という人の「神道を問ふに答るの中に陰陽の辯の内。」と題するものがある。
 おもしろいので紹介。

 「まづ世間には二つある物が多い。天地、日月、男女、昼夜、水火などの類だ。そのような二つある物の多いのは、みな陰陽の理だとしているが、じつは陰陽の理からそうなのではない。自然にそうなるのだ。
 そのゆえは、一つに一つを加えれば二つだ。また一つの物を割れば二つだ。それだから、二つの物は多くあるはずである。
 ところで二つの物より一つの物のほうが多いのであるけれど、人はそのことに注意しないものだ。人の身について言えば、耳目手足などは二つあるが、頭も鼻も口も臍も一つだ。もし陰陽の理あれば、万物ことごとく二つのはずだ。・・・
 さて二つである物は多くは反対の性質を持っているように見える。これも陰陽の理でそうなのではない。もともと二つであるということは、これとあれと異なるから二つであるというのだ。そうであるなら、二つである物は必ず、これとあれと異なるはずということになる。
 ところで、ただ二つの物であって、他の物を考えなければ、この二つの異なったこれとあれとは必ず反対ということになる。また必ず二つではないけれども反対するものに似た感じなら、強いて一対としてしまうことはよくある。
 とにかく陰陽の理ということは、もともとそうでないものを二つの物へ適応するために設けた仮の名である。」

 こういうところ、じつに宣長の面目躍如だな。宣長の思考には、どうも公式から演繹する方法に対する不信が感じられることが多い。

 この二つの物ということで連想してしまうのが、Bergsonの空間論だ。彼は最初の主著でこんなことを言っていた。

 〈二つの物は同時に同じ場所を占めることはできない〉という論は同義反復あるいは重複だ。というのは、〈二つの〉という言葉がすでに空間における併置の観念を含んでいる。

 それにしても、数はどうして出来たのであろう。小生の想像では、初めはものの多さの比較があったのではなかろうか。つまり二つの集合から一つ一つの物を対応させた。それを繰り返すうちに、いつしか個物の順序を表す言葉を与えた。一、二、三、・・・要するにこれ自然数。このとき、すなわち目の前の具体的な事物の名とは関係のない、順序を表す言葉を発した時、数というものの独立的観念に目覚めたのではなかろうか。

 空想をたくましくすれば、先ほどの陰陽の説ではないが、1よりも2のほうが、数として先だったのでは、とも思う。というのは、1というのは、英語でaのことで、べつに1と意識する必要はない。
 There is a pen. でいいのだ。oneとあえて言わない。ところが、テーブルに二つあることを表現するには、
 There are two pens. となる。このtwoに目覚めてからoneの発見があったような気がする。
 
 ちょっとうがち過ぎかな・・・・。
 逆に、そもそもの初めからaがすでにoneの観念を含んでいて、それが使われていくうちにだんだん oneの観念が希薄になっていったのかもしれない。だからaは不定冠詞と言われ、それは物そのものを限定するthe と比較すれば、抽象的数観念の名残をとどめているのではないか。

 まあ、そうだとしても、2 という数字は、なぜか、われわれの注意をとても惹きやすい性質をもっている。


 ちなみに、ゼロの発見はうーんと後の話であろう。

 ゼロ。これは難しい。なぜなら、われわれは物の存在しか知らないから。物の不在の観念は、存在のより後に決まっているし、数学上では引き算が生じてからだろうから。実用性からいったら分数より後のような気がする。

 それから、実数(マイナス)、無理数、・・・虚数・・・、数学の世界は、その論理に従ってどんどん広がる。



     
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

新春自戒

   新しき年の初めのわが住まひ
        塵の芥のさらに積もりぬ


 昨年、〈断捨離〉なんて言葉がちょっと流行りましたね。また使うかもしれないと思いながら仕舞いっ放しになっていた物が、長年の間にうんと溜まっています。箪笥や机の上には、何年も目の前に在りながら、とくに目をやるわけでもなく、ましてや手に取ることもなく置かれている物がたくさん並んでいます。

 これらは吾が身に余る欲望の象徴です。これからは、いわゆるシンプルライフを志して生きたいものと何となく口に出したい気にもなりますが、じつはこれがいけないですね。

 シンプルライフを生きようというのが、そもそも新しい欲望の発露なのです。いつも豪華な食事をとっている人が、今日はお茶漬けにしようと言うようなものです。それに飽きたらまた特上ステーキを食べ始めることは目に見えています。
 
 豪華マンションに住みたいという夢も、シンプルライフを生きたいという夢も、宣伝に洗脳された漠然たる夢なのではないでしょうか。

 要するに、現実はただ一つでありまして、常日ごろから、余計な夢を見ないこと。分をわきまえて行動すること。自分の消化できぬものまで取り込まないように注意すること。


           自戒↓↓↓

              
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

うつ病一歩手前

 このごろ夜よく目を覚ます。それがだいたい4時ごろである。そして、この世でとくに興味を引くものはあまりない、それどころか何をしても虚しいという思いがこみ上げてきて、胸苦しくなる。あっ、これではいけない、と考え、何か楽しくなりそうなものを心の中で探してみる。

 仕事、社会活動、読書、旅、出会い、宗教、創作、出家・・・。こんなときは何を考えても、結局は虚しいものだ、と思えてしまう。部屋の暗さがいかん、早く夜が明けないかな、と思う。日の明るさが、日常の活動意識を呼び覚ませてくれることを知っているからだ。

 そして、ここ何年か、座右の銘というか、繰り返し浮かんでくるマクベスの言葉が浮かんでくる。

 Life is but a walking shadow, a poor player,
  That struts and frets his hour upon the stage,
  And then is heard no more;
 It is a tale told by an idiot,
 full of sound and fury, signifying nothing.

 これをなんかおもしろく翻訳しよう、そうしたら気持ちも晴れるだろう、と考えた。

 ・・・人生は動く影だ。みんな下手な役者、自分の頭の中の人生という舞台で、大見えを切ったり、大真面目に悩んだりしている。   笑っちゃうよ!
君が死んだら、君のことなど誰も憶えていないこと請け合いだ。
 人生。それは馬鹿が創った物語、青春の華やかな乱痴気騒ぎ、あっと言う間に過ぎ去って、何の意味もない。・・・

 そもそも、思い返せば、小生が二十歳くらいの時、すでにやたら人生が虚しく感じられたものだ。そのとき、これではいけない、虚しく感じるのは、真にやりたいことがないということにすぎない、認識の問題ではなく活力の低下の問題に過ぎない、と自分に言い聞かせたものだ。

 今でもその考えは変わらない。活力ある人間は、人生が虚しいなどと感じている暇などなく何かに打ち込んでいる。会社を切り盛りしたり、異性を獲得するためにあれやこれやと画策したり、創作したり、スポーツをしたり、サークル活動をしたり、and so on.

 そもそも、人生は虚しいと感じる瞬間は、何事かをやろうとする意欲が減退するときである。それには、明瞭な原因がある場合もあり、とくに原因らしきものが見当たらないこともある。前者は急性であるが、日にち薬が有効だ。時がたてば自然に治る。しかし、これを繰り返す人は、やはり体質というか、そういう気質があるんだろうな。

 後者はどうしようもない。いくらこの世が意気消沈させることが多いとは言っても、全てということはない。まあ体質と言ってしまえば、そうに違いない。なんか生命が、その個体に力を与えるのを惜しんだ、といった趣である。

 それに引き換え、いつも元気溌剌としている人は、やはり生命力が漲っていると感じる。声も大きく姿勢もいい。そういう人が部屋に入ってくるだけで、部屋がぱっと明るくなるのを感じる。やはり人には人のオーラってものがある。

 昔いわゆる躁鬱病の友人がいた。そのとき驚いたのは、躁のときと鬱のときと、彼の肌の張りがまるで違うということだった。ある時、躁の彼に誘われて風呂屋に行った時のこと。裸になって大きい鏡の前で、彼はボディビルのポーズをとったり、格闘技の選手の真似をしたりしていた。このときの彼の肌のつやと張りが、まったく文字通り光り輝くようで、普段のくすんでたるんだ肌とはまるで違い、その隣にならんだ小生と見比べて、その若々しさに圧倒された。そのとき、いったい病気とは何か。病気が正常より健康そうに見えるのはなぜか、と不思議に思ったことが忘れられない。

 しかし、見た眼だけが美しくなればいいのだけれど、彼の行動はもう社会的規律を破って困った。調子が良すぎて一晩に何軒も梯子して借金だらけ、周囲はそれを抑えるのに難儀した。
 
 病気で不思議だと思ったことをもう一つ思い出した。関節リウマチの知人がいて、彼女は明日雨が降るよ、という。たしかに翌日は雨だ。これなんかは、病気が知覚を鋭敏にしたのだろう。

 なんにせよ、われわれは潜在的にいろいろな能力を有していて、普段はそれが抑えられているが、それがあるきっかけで、突然解発されるのかもしれん、まあ〈正常に〉生きるためには、正規分布の中ほどにいることが必要なんだろうな、と推測する。



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テーマ : 心と身体のケアを大切に! - ジャンル : 心と身体

対角線の数

先日、五角形の対角線の数は何本か、という問いがあった。小生は頭悪いので、描いてみないと解らんので、描いていたら、では六角形はいくつだろう、七角形はいくつだろう、では、一般にn角形の対角線の数を定式化できないものか、と考えた。

合計3時間くらいかかって解った。こんなもの、数学的センスがある人なら中学生でもすぐ解るだろうけど・・・。まあ、小生にとっては、この程度のこと考えるのが、程度に合っていて楽しいし、少しはボケ防止になるかもしれんて。

まず、やはり図を描く。
○四角形の場合。一つの頂点から一本の対角線が引ける。次に隣の頂点からまた一本の対角線が引ける。それでおしまい。
これを、1+1=2(本)と書く。

○次に五角形は、同様に、一つの頂点から2本、次の(隣の)頂点から2本、さらに次の頂点から一本。でおしまい。
これを、2+2+1=5(本)

○次に六角形を、同様に描くと。対角線の数は
3+3+2+1=9(本)

○さらに七角形の対角線の数は
4+4+3+2+1=14(本)

○8角形の場合
5+5+4+3+2+1=20(本)

こうなると、n角形の対角線の数Nはこうなるだろう
 N=(n-3)+(n-3)+(n-4)+(n-5)+・・・+2+1

これを前後ひっくり返すと
 N=1+2+3+・・・(n-4)+(n-3)+(n-3)

さて、似たやつ、どこかで見たことがあるな・・・
 T=1+2+3+・・・+t  これ、公式に表わせたはずだが・・・思い出せない
どうするか。ここで詰まった。しばらく諦めていた。ところがその三日後の仕事中、ふぃっと頭に浮かんだアイデアがこれだ!

こうすればよい。
 T=1+2+3+・・・(t-2)+(t-1)+t
これを前後ひっくり返して書くと

 T=t+(t-1)+(t-2)+・・・3+2+1

この二つの式を上下にピタッと張り合わして足すと
2T=(t+1)+(t+1)+・・・〈t個できる〉
=(t+1)×t =t(t+1) ゆえに
T=t(t+1)/2・・・ⓐ式とする。

とすると、
N=1+2+3+・・・(n-4)+(n-3)+(n-3)は
ⓐ式のtにn-3を代入し
N=(n-3)(n-2)/2+(n-3)
 =n(n-3)/2  という解が得られた!

では試しに、
n=5のとき、N=5×2÷2=5
n=8のとき、N=8×5÷2=20  おっ合ってるようだ。
n=10のときN=10×7÷2=35  これも合っていそうだ。
n=100のときN=100×97÷2=4850 ありえる。 

すごく嬉しいけれど、なんかもっと簡単にこんな式出来るような気もする。  

というのも、N=n(n-3)/2という式にじっと目を凝らすと、
三角形のときは、一つの頂点から隣り合った頂点に対角線を引くことは出来ないから、
nが3のとき0になる式 n-3 が含まれているに違いない。
つまり式は X×(n-3)となる可能性が濃厚だ。

そうすると、なんとなくn角形の場合、nがどんどん大きくなると、対角線の数も
さらにどんどん大きくなるから、n×(n-3)というのが式の中に含まれていそうな
気がする。とすると初めに図形に線を引いた手順を思い出し、1+2+・・・を
連想して感のいい人だったら、すぐ解を出せるかもしれない。
と思うと、なんか虚しい気もする。 


つれづれまるままに、日くらしPCにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
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超越的唯一神補遺

 今年の長い暑さのためか庭の景色が例年とは違う。庭では百日紅と槿がまだ花盛りなのに金木犀が香る。今夜この「寒露」に!月下美人が咲いた。庭でメダカの観察をしていると、まだまだ蚊に刺される。

 ところで、前回の小生の言い方は、なんかおかしいな。ブレーキが利かず停止線を越えていった感じだ。まさに〈超越的〉。しかし、この〈間違い〉はさらに考えさせられて面白い。小生の言い方だと、キリスト教のエッセンスは、歴史を否定し、文化を否定し、キリスト教そのものをも否定することになりそうだ。

 文化としての宗教(われわれがふだん宗教について話すときはこれである)というレベルでは、純粋な一神教は、ユダヤ教とイスラム教だ。キリスト教は理解不可能な三位一体があり、またマリア信仰も旺盛だ。なんかむしろぼんやりと多神的だ。
 
 イスラム教はその点とても明瞭な一神教だ。『コーラン』には、唯一の神がある、それには名は不要である、アッラーと言っておこう。イエスもムハンマドも預言者、すなわち人間であるにすぎない。神の教えを守って生きれば天国に行ける。天国とは「こんこんと絶えず泉が湧き、緑なす樹樹は陰をなし、甘い果物は食べたい放題、若い美女たちがいっぱい、抱きたい放題、しかも老いることがない、永遠の青春を与えられる」

 こんなところに行けるなら、小生だって自爆テロなどなんのその。
 このあまりにも具体的な天国は、しかし、昔ながらの生物としての人間のこの世的な欲望の投影だ。この教えは閉じられていて、超越的な契機を欠いている。

 もう一つの一神教であるユダヤ教。これも名前は要らぬ。ヤハウエとでも言っておこう。この神は圧倒的に強い神。父性の権化。この陰気で、秘密結社めいたユダヤ教徒は、その律法にがんじがらめになっていて、天国がちらつくその閉鎖性の中で、心理は屈折し、たえず内向してしまう。

 それを引きつだキリスト教は、やはり天国にいけるとはいうものの、天国とはどんなことろか決して明らかにしない。それどころか、それはぜんぜんいいところではないかもしれない。しかし、そこには何か〈開放〉の機運がある。そこに至る道はいばらの道かもしれない。それでもいいか、と問われているような気もする。

 新しい神キリストは、信者が創る教会を憐れみの心をもって見つめるだろう。やはり彼らには文化が必要なんだ。彼らには政治が必要なんだ。しかし、キリストは、迷わぬ99匹を置いてでも、迷った一匹を探しに行く。徹底的に反政治的なるもの。それは宗教であって、しかも宗教の域を超えている。

 小生は何ゆえキリスト教が、当たり前だと思われている人間社会を超えるような、超越的契機をはらんだものではないか、と言いたくなるのは、まさにそのことをキリスト教文化圏に生きた後に実存哲学者とよばれる青白い熱血漢たちに、そのことを示唆されたからである。




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なんかなー

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超越的唯一神

 キリスト教でいう神は、小生は絶対善の究極的観念のようなものだと思っている。だから、キリスト教は諸宗教の中で極めて道徳観念と結びついている。平たく言えば、自然と調和し、自然を崇める、大昔から世界の至る所にある自然宗教とはずいぶん趣を異にし、いわば進化している。ここで変化と言わずに進化と言った理由は、おいおい述べよう。

 宗教は人間の心を救うものだ。宗教はもともと、我々の生存を脅かすもの、われわれの不安から、われわれを救ってくれるものだ。
 明日の食事を獲得できるように、森の神、海の神に祈りをささげる。試験に合格できるように、霊験あらたかな神にお願いをしに神社に参る。病気が治るように、シャーマンを通じて祖霊に祈る。
 
 宗教とは別に、われわれは集団生活をする生き物として、善いことと悪いことの区別を知っている。しかし、状況が複雑になるにつれ、またわれわれの個人的欲望が増大するにつれ、何がいいことで何が悪いことか判別が難しくなってきた。それで紀元前の大昔は、たとえばユダヤの律法のように、とにかくいくつかの文言に書き表した。そして、神の命令ということを付け加えれば、その文書に権威づけができる。
 この時点で、つまり人類が誕生してからずいぶん後になって、道徳(善悪)と神とが結びついた。

 イエスが、ある時出現する。彼は善悪について逆説的ともいえる、極端な行為と言葉を残したと後の弟子たちが語っている。
 彼が語ったという言葉の一つ。私に付いてくるなら、すべてを捨てて来なさい。すべてとは、財産のみならず、肉親も、一切の持ち物も、今まで信じていた思想も、ということだ。イエスの弟子に語ることはすべて実行不可能なことばかりである。
 しかし、ここから、われわれの絶対的善の神観念が生まれてくる。これを基準にしてわれわれは善悪を考えることができる。
 
 道徳は、あるいは善悪は、時代や地域や育ちによって異なる、とは言うものの、ここにおいて、それは己の考えを徹底しては疑わないという意味になる。その時代の道徳観念に従うことはむしろ易しいことだ。イエスは本質的な点で時の道徳に従わなかった。キリストは言う、一切の自己閉鎖性から自由になれと。これは神の声を聴けということと同義語なのであるが。しかし、これはとても難しいことだ。われわれは懐疑を止める。あるいは、換言すれば信仰を止める。

  そしてまた、われわれが、己の行為について、どうするのが最善か考えるとき、己の心に、つまり最善を知っている神に問い合わせる。もちろん、われわれは、なかなか最善を実行することが出来ない。実行できなくても、最善を知っている、あるいは心の中で探求することができる。しかし、どこまでも続けることはできない。われわれは探求を止める。あるいは信仰を止める。

 小生が言う「キリスト教のエッセンス」とは、そういうしんどい作業を続けることであり、完全に実行できる人はまずいないと思われる。しかし、このエッセンスは、いかなる教会組織とも関係がない。もちろん神父さんの中には、〈かなりの人〉もいるのであろう。が、また一般人の中にも、同じように〈かなりの人〉もいるであろう。西郷さんも〈かなりの人〉であったと想像される。

 この場合、神というのは、もちろん物理的実体はない。人間は物理的、生物的実体をもつ。それは、人間もまた動物だということだ。しかし、それは半分の真実だ。
 神はあるとき人間が創り出したものだ。何らかの必要があって。それは観念だ、と言いたいが、それにしては、何というか、生々しすぎる。
 比喩的にこう言えるかもしれない。それは数学のようなものだと。とこう言うと、プラトンのイデアになってしまうが。

 数学はこの世にあるか? ノーである。それは数学者の頭の中にある。(脳みそではないのよ!)自然数から実数へ、分数、無理数、虚数。この虚数というのは傑作だ。方程式の解にルートの中がマイナスになった。ではこれを i とつけよう。i はimaginaryの略だ。二乗してしてマイナス3となる数を√3iと表現しよう。なんで!と小生が叫んでもしようがない。数学者の頭の中では、数学が厳格な論理をたどって、絶え間なく拡張していく。彼らにとってはこれが嬉しいのだ。とろこで、このわれわれから見ると、数学者たちの勝手きわまりない数学世界が、現実の科学に何と役立っているのか驚く。この世にない数、どう想像していいか分からぬ虚数や複素数(a+√3iとはいったい何?)、これなくては、コンピューターやロケットが作れない。

 で、神もそのようなものだ。人々の頭の中に、これが宿るようになってから、つまり超越的唯一神の宗教と道徳が手を結んで以来、われわれの道徳が一段と精度を上げ、普遍性に近づけるようになったのだ。
 中世に秋が来て、素朴な信仰者が、実体化して考える神は、いずれ捨てられ忘れられる時がくるかもしれない。が、あの〈超越的唯一神〉はなくなるとは考えにくい。

 こうやって、我々人間は、顔形はさほど変わらぬとも、じつは進化している。




おいおい忘れちゃいけませんぜ
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道徳とは何か 5

 カントの示唆によって、小生がとても面白く感じることは次のことだ。

 道徳は人間種がこの世でより上手く生き延びていくために必要である。しかしそのためのみあるのだとするなら、動物における本能の役割を演ずるにすぎない。

 が、それ以上のものが人間にはある、それは快不快あるいは幸不幸などというものから隔絶された、いわば善悪の絶対的判定の追及ではあるまいか。そしてこの追及は、一般論としてではなく、具端的な己の心の態度として、己の心においてのみ為されるならば、小生はこれこそキリスト教の「可能性の中心」ではないかと密かに考えたくなる。

 すでに触れたように、カントは教会組織としてのキリスト教には関心を持たなかった。カントにとって神がまず存在するから道徳が措定されるのではなく、まずわれわれに道徳法則がいわば義務として備わっているからこそ神が要請される。まず初めに神がどこかに存在していて、天国だの地獄だのの恐怖や強制をもって善を為さしめることを嫌った。

 キリスト教の源泉の躍動は、むしろカントの方にあるのではないだろうか。利己心の塊であり、身勝手きわまる人間種に手を焼き、これをなんとか存続させようとする生命の方略は、あるとき神の命令として単純な〈言葉〉に表されたのだった。しかしわれわれの内なるもっとも基本的な法則が、しかしいつしか外部からの強制になっていった。

 われわれ日本人が西洋を知り始めた時、キリスト教の教えと危険を漠然とは感じてはいても、そのあたりの事情は解らなかった。明治時代が積極的に受け入れてきたものは、根源的躍動が薄まってほとんど忘れられてしまった、いわゆる〈キリスト教文化〉にすぎなかった。

 しかし、われわれが付き合い始めた十九世紀西洋は、啓蒙主義の播いた種が実を結び、行くところまで行った時代だった。神は人心掌握の悪魔と手を結ぶ。また科学技術が飛躍的に向上し、科学主義が人々の心を奪う。しかしいっぽう産業や戦争の規模が大きくなるにつれ、人々はその奴隷になることの不安を抱き始め、新たな宗教を求める。

 そういう向うから押し寄せるダイナミックな波に、とにかく浮袋をつけて乗ってきたのがわれわれだ。波を生んできた力と真に格闘することなく、またする必要もなかった。それは、われわれの置かれた条件、地理・歴史を顧みれば、当然である。われわれにはわれわれの問題があった。しかし、いま日本人にまったく新しい問題が与えられているように感じる。

 経験にかかわらぬ(誤解されやすい言い回しだ!)普遍的な絶対的善悪の追及。たまたま西洋で唯一神の信仰という形をとってきた、自然によって人間種に与えられた能力(道徳)のさらなる発展。これこそキリスト教文明の精華であると小生は感じる。がしかし西洋はこれ以上、問うことを止めたかにみえる。

 あるいは、あまりにも現世的欲望にまみれ、不安から逃れることができない人間のあり様に、もう一度問い直しを迫られているのかもしれない。しかし、人間種が人間種であるあいだは、けっして従来の問いは消えることがないはずだと思う。

 自然信仰や古い神々がいまだに息づいている日本人(本当にそうか?)が、西洋の問いを受け継ぎ、それに対する新しい突破口を発見できる可能性があるのだろうか。そう信じたいが・・・。希望的観測。



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道徳とは何か4

 人間には、経験に先だって、先天的に道徳法則があると言ったのは、カントだった。自分の意志というものを考えてみるにまず最初に表われるのが、この道徳法則だという。この現象世界だけを考えれば、彼によると、われわれは自由ではない、それにもかかわらず、現象世界以外に直接意識できるもの、それが道徳法則であり、それは自由の理念と結びついている。だから、この道徳法則が与えられていない動物は自由ではない。いわば必然の自然法則の内にあるにすぎない。

 そして、この道徳法則があるから善悪の判定が可能となる。すなわち、この法則に一致することが善である。そして、われわれはいつの日か最高善に到達しうる。そのためには、有限な存在であっては不可能であるから、無限に続く心の不死を前提しなければならない、となる。

 自律とは道徳法則に従う意志であり、もし意志が他の何か、たとえば幸福とか快い感情とか神のような最高存在者によって規定されるとなると他律である。だから、カントによると神はいわば消極的存在であり、最高善を達成するために〈要請される〉にすぎない。ちなみに、この点を当時の教会組織は非難した。しかし、〈要請される〉ということが〈必要である〉と解すれば、非難するにあたらない。

 そしてまた、この時代、啓蒙主義の時代、ヨーロッパが直面した問題、もし神が報いと罰とをもって人の行為を制すれば、宗教は道徳の基礎足りえないのではないか。この疑問に対しては、道徳法則を先行させるカントは然りと言い、そのことで逆に真の宗教を救ったともいえる。
 
 要するに、カントは、各々の人間は生まれながらに心の中に法廷をもっている、それが道徳だ、と言う。そして例の定言命令がくる。
 「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」




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道徳とは何か3

(続き)人間を内側から強く縛る道徳の及ぶ範囲はどれくらいなのか。どこまでが先天的であり、どこからが後天的であるのか。

 たとえば、もっとも重いこととして、人を殺してはいけない、というのがあげられる。しかし、これとても本当に先天的、無条件的であるか。ローマの剣闘士たちは、闘技場での殺人を控えるか。赤穂浪士は吉良上野介の首を打ち取るのを悪いこととして辞めるか。むしろ彼らは打ち取ることが道義だと感じていたのではないか。

 いやもっと卑近な例がいくらでもある。嫉妬に駆られ、あるいは復讐の念にかられ、殺人を起こした人に、同情することはよくある。また好んで殺人を繰り返す者を死刑にするのに異論を述べる人は少ない。
 つまり法が道徳的であるのか、と疑問をいだくことはありうる。

 ましてや、もっと軽いことについては、たとえば人に嘘をついてはいけない、嘘をつくことは悪いことだとは誰でも口にする。しかしほとんど実行されない。それどころか、状況によっては嘘をつく方が良いことだと称賛されうる。この場合は、嘘をつくという行為より、その心はいかにという点が、重要視される。

 ただ問題は、それはまさに、その嘘をつく心が善かったのか悪かったのかは問われているのではないか、ということである。つまり、人はその行為が表面的にあるいは内面的に、善いのかどうか、たえず気になるのであって、そのことがつまり道徳が人間に先天的に備わっていると感じられる点ではなかろうか。

 そのことは、たとえば国家間の紛争において明瞭にみてとれる。強い国家は弱い国家に戦争をけしかけ、持ち物を強奪したり、占領したりする。強いものが弱いものを奪って何が悪いと居直れる国はなぜかない。必ず何らかの言い訳をする。「ガリア戦記」から「東京裁判」に至るまで、じっさいは強いものが弱いものからものを奪っているにもかかわらず、戦争には大義があった、あるいは、正当であったという裁決をしたがる。嘘でもいから己の正当性を世にそして己に示さねば気がすまない。

 なぜ堂々と力=正義と言えないのか。それこそ一番初めに述べた、人が集団で生きるに必要な知恵を生命が与えてくれたからではなかろうか。戦々恐々としてバラバラで生きていたのでは未開のままだ。


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道徳とは何か2

 (続き)ここでこんなことを想像してみよう。何百万年前、地球上のあるところに類人猿の集団が居た。この類人猿たちはずっと昔に比べると餌を採取するためのさまざまな道具も発明し、大分知能が発達してきた。そこで、神様がいよいよ時機到来と考え、この集団に相談を持ちかけた。そして言うには、「君たちよ、君たちは大分賢くなった。これからは自分たちの知恵を大いに働かせて生きていく道があるかもしれない。これから二つの道を用意するから、どちらの道を行くかよく考えて、選択するのだ。一つは、今まで通り、君たちの生命を脅かす最大の敵である冬将軍から身を守るための毛皮を与えよう。しかし、それ以外の新しいものは与えない。もう一つの道は、寒さから身を守るための衣服を自分で作る知恵を与えよう。その代わり、今までの毛皮をそっくり返してもらおう。」

 そして類人猿たちは相談した。喧々諤々の議論の末、生きるに慎重なグループは今まで通りの毛皮をもらった。他方、知恵を選んだグループは、全滅のリスクはあるが成功すれば大いなる発展が期待できると考えた。かくて、前者が猿種になり、後者が人間種になった。

 かくして人間から毛皮が亡くなっていったのと、衣類を作る知能とは同時に起こった。毛皮がなくなったから、衣類を作る工夫が生じたというのでは、その間に長期に寒さが続けば全滅したであろうし、そもそも毛皮がなくなる必然性はない。

 しかし、必要は発明の母と言うではないか、危機にひんしてこそ新しい創造がなされるのではないか、という反論が後ろから聞こえてくる。そうかもしれない。実験的にhairless monkeyを創って、これらが自然の状態で衣服を作ることができるかどうか、ぜひ実験してみたいものだ。

  ウイルスは突然のいかなる環境の変化に対しても死滅しないように、たえず変異しているらしい。われわれのような大生物も同じことだ。ただその構造がものすごく複雑であって、何千年何万年という単位がかかるのであるが。
 
 何と考えようと、確かなことは、われわれ生き物の解剖学的生理学的行動学的構造とその変化は、われわれがどう意志しようと、どうにもなるものではない。それは〈生命〉という不可思議な力のなせる業のように見えてくる。ただ言えることは、あらゆる生物はこの世界で生きていくのに、いかにも上手に理にかなった方略を有しているということだ。

 道徳に戻ると、道徳は自然によって人間種に与えられた生き延びるための方略でなかろうか。だからこそ、なぜ人間は人を殺してはいけないのか、なぜ他人のものを盗んではいけないのか、その理由に窮するのだ。こんなにも人の欲望に反する掟が、あたかも定言命令のごとくどうしてあるのか。もちろん人間は掟を破る。破られるからこそ掟であるとさえいえる。それゆえ、知性ある人間は、自然が人間種に与えた掟のうえに、さらに法を作って人間自らの行動に拘束をかけ、集団の秩序を維持しようしてきた。


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道徳とは何か1

道徳とは何かを考えてみた。

 まず〈それがないとどうなるか〉を第一に想像してみる。
 もし道徳がなければ、社会生活は円滑に進まないだろうと思われる。一番単純には、強いもの勝ちになるであろう。強いものが弱いものを支配する。強いものはしたい放題。気に食わない者は殺してしまえばよい。
 すると、この強者をねらう強者が出てくるであろう。さらにそれをねらう巧者が出てくるであろう。信頼はなく戦々恐々とした日々を送れねばならない。

 それが厭なら、人は他人に危害を加えてはいけない、とう法を作って、それを順守しなければならない。しかし、厭という者は弱者である。強者は法を嫌う。あるいは強者の支配に都合のよい法を作って、それを守るよう他者に強要する。
 すると、弱者が一時的に団結して、その支配者を倒そうとするであろう。倒した暁には内部分裂するであろう。そこからまた強者がのし上がってくるであろう。

 そういうわけで、終にはみなバラバラに、せいぜい家族単位で自活するしか道はなかろう。けっして集団として生きていくことはできない。文明はあるところで停止したままであろう。

 まあこれはもしもという想像である。現実の人間社会はそうではない。われわれは集団をなして生きていて、高度な文明を生きている。


 観点を変えてみよう。この地球上の生き物は、とにかく生き延びようとしている。種として個体数を増やし延々と生き延びようとしているように見える。ばらばらに生きている生き物もあれば、集団をなして生きている物もある。蟻は一匹の女王蟻を中心に完全な集団をなしている。その分業秩序は見事であり、あたかも全体で一つの生き物のようだ。

 ミナミゾウアザラシはハーレムをつくり、一匹の最強のオスが多数のメスに子を産ませ、それが強い集団を維持し、集団は長らく生き延びる。この種はそういう方略で生きている。

 お猿の集団も似たような生き方をしている。最強のボスは、餌もメスもまず己の自由にできる。しかし、集団に危機が迫ると身を挺して集団を守る。そういう責任感をもった強い猿がボスになって、集団は生き延びる。婚期が近付いたメスは他の集団に嫁ぎに行く。それが集団を維持する生物学的要請だ。(原始的な人間社会もそのようであったようだ。)これが、お猿という種が何時までも生き残るために採った方略だ。

 では、人間種はどういう方略を採っているか?
 人間は集団をなして生きるが、残念ながら、蟻のように生まれつき勤勉ではない。自ら進んで己に与えられた仕事をしない。でき得れば自分だけは楽をしたい、得をしたい、さらに他人よりリッチになりたいと思っている。そのために邪魔になる人間を抹殺したいと思う。そこで、どうしても集団を維持していくには、集団の構成員一人一人に働きかける掟を、生命は与えた。その掟はもちろん先天的な観念のように強く心に働きかえるものでなければならない。それが道徳というものではなかろうか。

〈人を殺してはいけない〉〈人の物を黙って盗んではならない〉・・・。それらは、人が生みだした掟ではない。天が、生命が、与えたものだ。あるいは言葉を代えれば、人間という種が、自ら生き延びるために採用した方略だ。




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お盆

今日はお盆でお墓参りをしました。

3年前に亡くなった知人Tさんのお墓と、そのすぐ近くの、Tさんが生前(数年前)に、ある人のために立てたお墓と。じつはTさんの後半生はその人の再来(生まれ変わり)なんです。

Tさんは、小生が親しく交際させていただいた人の中で、もっとも不思議な、そして傑物でした。大正3年生まれ。東京で育ち、占いの命じるまま西に向かう。終戦後、多くの孤児たちを自ら育て、実の子供はいませんでしたが、母よ、救世主よ、と多くの人たちに慕われ尊敬されていました。ざっくばらんで、誰にも率直に親しく声をかけ、その上とても繊細でした。小生もずいぶん世話になり、またよく食事や旅行に誘ってくださった。とてもさみしがり屋さんでもあり、晩年は他人からあがめられることの孤独について洩らすこともありました。

Tさんは、昭和30年代に離婚し、数日間おかしくなったそうです。神がかりになって、入ったのですね、ある人が。そのある人とは山田梅次郎さんといって、昭和16年に亡くなった宗教家なんです。そして、Tさんは山田さん宅を突然訪問するのですが、山田さんの家人は「お待ちしておりました」と言ったそうです。以後、Tさんは宗教家と自覚し活動を開始したのです。

今日昼の暑いさなか、Tさんが書き残した墓碑銘をつらつら読んでいたのですが、その山田梅次郎さんは中山善兵衛という人の生まれ変わりなんだそうです。なんか気になって、帰宅して調べてみたら、その人は天理教の教祖の中山みきのご主人ではありませんか。そして、中山みきという人の生きざまを読んでいて、Tさんのそれが重なってきて、不思議な気持ちになりました。それに蒸し暑さも加わって、頭がぼーとしました。

Tさんの残した一句が浮かんできます。

流木に 過去など思ひ 夏の浜




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生命の進化

 地球上の何億年の生物進化の話を聞くのは面白いですね。恐竜は体を大きくすることによって長く生き延びたとか、そのとき体が小さかった哺乳類は夜行活動ができるように聴覚を発達させて生き延びたとか、鳥類は体を軽くするためにその骨の構造を空洞したとか、魚類は速く泳げるために流線型になったとか。
 そればかりではなく、細胞の構造や機能、遺伝子の機能に至るまで、ことごとく合目的に変化し作られてきたようにみえますね。 

 昆虫と植物などは、それぞれ生き延びるための奇想天外の工夫、他類がああすればこうする、だましだまされ、戦略の傑作ぞろい。
 このごろは撮影技術の向上で、テレビでその様子が身近に見えておもしろいですね。

 で思うんですが、この例えばある種のコウモリは洞窟の暗闇に住んで超音波を発して獲物を捕らえるようになって生き延びた、と言う時、このような作戦を練り、このような機能、形態をとってきたのは、コウモリなのでしょうか。しかし一匹一匹のコウモリにそんな意志はないでしょうし、またそうなろうとしてもなれるはずはありません。それならば、その〈コウモリ族という生命の一団〉の意志というしか、ありませんね。
 
 そうすると、あらゆる生き物の在り様は、それぞれの種を背後から統括し推進している生命が採った、この地球上に生きるための方略の姿ですね。

 そして、今地球上で何万種類の生き物が居るかしりませんけどね、今居る生き物の種類より、かつて生存していて今は絶滅して居なくなった種類のほうが、はるかに多いと言うじゃありませんか。絶滅した種は生きるのに失敗したんですね。もちろん突然の環境の変化によるものだったかもしれません。

 そしてまた、今なお滅びつつある生き物もいるし、また新種も生まれつつありますね。少なくとも環境が変われば、それに即応した生物が生まれてくる。生命はなんとかこの地球環境で生き延びようとしているように見えますね。この絶えず工夫し動いている生命のダイナミズムには驚かされます。

 ところで、この生命の動きを思い描いてみると、どんどん枝別れをして成長してゆく樹木を思い出します。そうそう生物の系統樹というのがありますね。あの系統樹が絶えず激しく伸びている様を想像するとよいでしょう。

 例えば何百万年前類人猿が枝分かれをし、一方は人間に一方は猿属になっていったと考えられていますね。他のあらゆる生物が系統樹のどのあたりの位置を占めるか、形態的機能的に想像できますし、今ではDNAの解析によって、さらに厳密に分かってきているだろうと思います。

 すると、系統樹を源流の方へ遡っていけば、たった一つの種になってしまいますね。これは一体何だったのか。この生命が地球上に出現したのは。これは驚くべきことです。このことに一番最初に驚いたのは、たぶんダーウィンだったのではと思います。

 ダーウィンは、一般に「自然選択説」で有名ですね。つまり、生物は各世代において絶えずランダムに微小な変化をしている。そして、その変化したもののうち環境にもっとも適したものが生き残る、適者生存ですね。そして、それが何代も積み重なって、適者としての種ができる、というのですね。

 しかし、どうもそればかりでは説明がつかない。たとえば、キリンの首は長い、それはもともと馬みたいなのがいて、それがある地域においては、木の高いところにある葉を食べれるような首の長いのが有利だから、少し首の長いのが生じた、そしてさらにそれより長いのが、というふうに、何代も積み重なって、キリンができた、となります。しかしどこの地層にも、中間的な長さの首が出てこない。どうも微小な変化とは違う。キリンという種は、突然出現したとしか考えられません。

 しかも、考えてみるに、キリンの長い首を支えるためには、それを支える骨格全体も変化しなければならないし、脳に血液を送るべく、高い血圧を生じさせねばならないし、そのための心臓や血管もおそらく神経系もそれなりに変化しなければならない。となると、体のあらゆる部分が連動してうまく変化しなければならない。
 これはもう、全体がキリンをねらって組み立てられたとしか考えられません。となると、キリンやゾウなどのような大抵の特殊な形態を持った種は、あるとき一気に唐突に出現したのではないか、となりますね。

 しかし他方、ウイルスの素早い変異や抗生物質に対抗する耐性菌の出現などの、小さな変化は自然選択説でも説明できるかもしれませんね。

 ダーウィンは、人間は猿から生じてきたとして、特に宗教界から攻撃され続けています。しかし、『種の起源』では、彼は自分の説ではすべてを説明できないと言ってますし、生命が種となって枝分かれをしてきたのではないか、そしてそれを遡ればたった一つの源生命Xになる、ということに彼本人がいちばん驚愕していています、そこが小生にはとくに面白く感じます。宇宙における生命の神秘の前で、彼はあっと口を開けている姿が浮かんできます。彼の眼には見えたんですね、生命の躍動が。


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はやぶさ君

 先日、日本の小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還した。はやぶさは、「いとかわ」という直径500メートル余りの非常に小さな惑星(岩石?)に接着し、その砂のごく僅かを採取してきたという。さまざまな故障があったらしく、一時は地球との連絡も途絶え、瀕死の重傷を負いながら宇宙空間をさまよい、予定より三年も遅れて、なんと七年ぶりに、地球に帰還したのだった。
 はやぶさは、大気圏に突入後、間もなく燃え尽き、肝心要の「いとかわ」の砂入りのカプセルを地上に見事送り届けた。
 この快挙に日本中が湧きたった。いくつかの世界初の画期的な技術が成功を導いたのだという。そして、はやぶさに対する人々の共感についての新聞の記事が目をひいた。
 
「ネットには、はやぶさを人や動物に見立てた漫画をはじめ、応援歌や実物大模型などを勝手に作り、ゴール間近の旅路に声援を送る人であふれている。山川草木だけでなく機械にも人格を見いだし、愛着を抱く。大量生産、大量廃棄とは異なるモノとの対し方がここにも垣間見える」(日経6月13日)

 小生がここに感じたのは、そもそも生命とは何ぞや、という疑問である。

 はやぶさは、その構造がいかに複雑であろうとも機械である。いかに自動修復できるよう設計されているとしても機械である。機械とは物質の組み合わせである。それは生命ではない。しかし、人はその機械の快挙(!)に、拍手を送り、あまつさえその苦労(!)に涙する。そのとき人はそれを生命と見做してはいないだろうか。

 では、生命とはなにか。生き物は生命であるとはだれもが言うが、科学者が細菌の遺伝子を調べている時、それを生命と見做しているか。ただ塩基コードの配列と見ているのではないか。脳科学者がヒトの脳を調べている時、それは血流だのシナプスの伝達の具合など、要するにまさに脳神経を調べているのはないか。それは機械の構造を調べるのと寸分の違いがない。

 ただ、両者の違いをあえて言えば、その機械は人間が創ったか自然が創ったかの違いである。人間が創ったものは、今のところ、人間がプログラムしたものしか出てこないが、自然が創ったものは、今のところ、未知なる部分が圧倒的に多い。

 で、いちおう〈生命〉とは自然が創った機械である、と言えそうである。ところが、もしその機械のメカニズムがかなり解明されたとしよう。つまり、細菌の生死や変異はこういうものか、ヒトの脳の局所の働きはこういうものか、ということが〈解った〉とわれわれが思ったとしよう。と、その時にはわれわれが創ったロボットすなわち精巧な機械と区別することはできない。
 
 ところで、他の生き物は知らず、人間は物質機械に働きかける知性のほかに感情という機能がある。それは他人にたいする愛憎―愛憎による判断力である。その対象はヒトのみならず、他の〈生き物〉に対しても、何に対しても起こりうる。今回のはやぶさに対する人々の愛着、応援、また自己修復の努力とか満身創痍とかの言葉を使ってしまうのは、感情的にはそれを生き物と見做している。ということは、この場合、〈生命〉とは人が愛したり憎んだりする対象である。

 だから、生命というのは何によって決めるのか、という問題がある。

ところで、知性という機能はどういうものか。それは、〈もの〉を知るのに相応しい機能であろうか。どうもそれはちょっと違うような気がする。

 知性は〈もの〉を解剖し、それを諸部分に別け、その働きを見出す。しかし、それはいわば隠された自然の線に沿って解剖するであろうか。それはむしろ知性の線の沿って解剖しているのではないか。それは、ものの〈探究〉というよりもわれわれの〈役に立つ〉ということを絶えず念頭において進めるやり方ではないか。

 科学の発端はともかく、今やその方法は露骨である。あらゆる〈もの〉が、いわば方眼紙のような幾何空間に並べられ、どこまでも細分されうるし、自由自在に統合される。その目標には生活の便利と書かれている。

 ついでに言えば、この科学的方法は、もちろん初めはたまたま西欧で発達したものだが、いまや世界中どこででも、日本でも中国でもアフリカでも使用でき応用できることは見ての通りで、科学主義が西欧の固有のものではない。それは、人間の普遍的な知性のゆえに、教われば誰でも気づき、人間の居る所ならどこでもある。さらについでに言えば、早く発達した西欧ではまた科学的方法論の人間の生における、その領分と有効性についての哲学的反省も早く芽生えた。

 ところが、数学の発達と科学実験を行う装置の急激な発達は、われわれの従来の物質観を変えてきた。一昔前までは、物質といえば、どんなに小さなものでも、大きさがある、位置がある、などと思われてきた。ところが、量子力学は、電子なんてものは、そこら辺に確率的に存在する、と教える。超ひも理論というのかしら、ものは粒子ではなく振動ではないかと。
 まあ、こういった表現はいつもわれわれの認識の限界を指し示すのだろうが、こういった新しい科学の知見は、便利のためではなく、〈もの〉の実在に迫る探究ではないかという反論が予想される。

 しかしながら、〈もの〉とは何か? 科学は、平たく言えば、厳密に科学によってとらえられる現象だけをとらえている。つまり、それは〈もの〉そのものが、カント的にいえば、われわれの先天的な(たとえば時間・空間という)感性のフィルターを通して入ってきたものが、悟性というこれまた人間にもともと備わった方法によって解釈されているだけなのではないか。だからこそ科学的方法は万人にとって普遍的でありうる。
 だがしかし、人間にはそれとことなる全く異なる先天的機能もある。それによると〈もの〉そのものは、また違った様相を見せる。それが、例えば芸術であり、道徳なんて分野だ。
 なんか話が逸れていく・・・要するに、例えば物質とは何か? それは〈もの〉の、われわれの科学的アプローチに応ずる局面のことである。


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マインドコントロールの効用 12

 しかし「人はみな独創的である」と言えるためには、そこに共通の基盤がなければならない。全くてんでばらばらであるならば独創すらない。そしてこの世で共通の基盤を保証するものは言語による会話ではなかろうか。 
 人間にとっての社会生活というのは広い意味で言語を話すということである。そこには単純なサインとしての言語から高度に豊富な意味を蔵したシンボリックな言語まである。さらに一つの言語はその使用される文脈によっても広がりを変える。この言語の性質を上手く利用する職人が文筆家である。

 人はなぜかおしゃべりが好きだ。己の経験を他人に伝えることが何よりも楽しい、といった生き物に見える。そこには単純に表せるような経験もあるし、委細を尽くしてもなお表現できない経験もある。そういった経験の違いは、端的に経験する精神の違いである。われわれは誰もが多かれ少なかれ深い精神という井戸である。

 日常の会話においては浅い部分だけで事足りる。そうしてそのほうが楽である。深い部分に触れるにはどうしても努力が要る。暗闇の中を手探りで進むようなものだ。集中してゆっくり進まねばならない。そこには出来合いの有力な道具がない。しかしわれわれの周囲には惑わしに満ちた道具が転がっていて、われわれを誘惑している。それこそ一見意味ありげな使い古された言葉(概念)である。これを使えば一見ことが速く運びそうに見える。が、これこそ危険である。これに頼ってしまっては真の水脈を見失ってしまう。見失わないためには、人は道具を吟味し、その内容を変え、あるいは己で新しい道具を発明しなければならない。これがいわゆる思想家などといわれる人たちに課せられた仕事であろう。われわれはその足跡を追っていくだけで精一杯であるが、しかし、いかに見慣れないものであっても、その道具は道具である以上、全く意味不明の記号ではなく手がかりはある。その手がかりを失わずに、思想家の井戸を降りて行き、彼の見つけた新しい水脈を見ることができる。

 われわれもみな独創的であるはずなのに、そうでないように見えるのは、われわれは己独自の道具を持たないからだ。つい出来合いの便利な道具を使ってしまう。

 


なんか訳の解らんことを一人で書いているな~
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マインドコントロールの効用 11

 結局われわれの住んでいる真の場所は意味の世界、観念の世界である。じつに初めから、あるいは生まれた時からそうである。しかし、われわれは意味や観念の素材を自分で創りだすことはできない。必ず経験から得る。経験するとはどういうことであろうか。
 ロックは、われわれの心は生まれた時は何に
も書かれていないホワイトボードであり、この世で生きる経験がそこに書き加えられていくというようなことを言ったが、社会学者としての観点で言うならそれでよかろう。しかし哲学者としてはずいぶん大雑把な言い方だ。われわれは受動的なホワイトボードではない。能動的な主体であり、個人的で独創的だ。〈経験〉と一言で言っても、じつは誰にでも共通の〈経験〉なるものはない。物理的・社会的に同じような状況にあっても、人により時により、異質な経験をしているのである。同じ経験とはいっても一回目と二回目とでは違う。

 人はみな他の生き物同様生命力だ。この世にある素材を食って成長している。そして生命力のそれぞれが生まれながらにして、独特の傾向を有している。それは脳を含めた身体、それを決定している遺伝子によるというが、そのメカニズムを今考える必要ない。とにかく人はそれぞれ生まれもった資質に応じて知覚し、感情をもち、行為する。すなわち経験をする。始めから共通のホワイトボードであることはない。むしろ能動的に取捨選択をするフィルターをもつ機械のようなものである。いや、そういった力そのもの、前進する力そのもののように感じる。植物が地中の様々な物質から己の成長に必要な成分だけを選択して吸収しているように、人はそれぞれの資質に従ってこの世にある素材から何かを得る。そうしてその取捨選択によって形作られたその個人の人格は、ちょうど一幅の絵画のような一つの作品と言えるのではないだろうか。しかし人はそこで日々新たな経験をしている。つまりたえず変容し続けている。そういう意味では止むことのない音楽のようなものと言ったほうがいいか。


 なるほど 
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マインドコントロールの効用 10


 われわれはたえず己の心の意味の世界から、この世のサイン(道標)に向かって、意味の流れの修正を求めている。そのとき、あたかもこの世の物質的不連続の隙間に、われわれが補填をし、意味の流れを生じさせているようにもみえる。

 読書とは何か。文字という道標だけから意味の流れを生じさせることはできるであろうか。読書とは、読者の心が、文字という無意乾燥な不連続的物質の隙間に、伝導体を補填し意味が流れるように、たえざる努力をすることである。そのさい、それはあくまで自分流にやるので、作者の心の流れと一致しているかどうかわからない。しかし、読者の務めは、作者がこういった意味で言っているであろうと想定しつつ道標を解することである。
 したがって一つの道標ともう一つの道標との隙間が大きくなればなるほど、われわれはその隙間を埋める努力を要求される。日常の習慣的行為においては、われわれは特に努力をせずにそれを無意識にやっている。

心理学の実験であるように、真っ暗のスクリーンに明るい点を一瞬灯し、次の瞬間に別のところに同様の光点を灯す。すると、われわれは一つの光点が動いたように知覚する。これは文字通りわれわれが隙間を埋め意味の流れを生じさせたといえる。こんなのを錯覚(知覚のトリック)と呼ぶこともあるが、では正しく知覚するとはどういうことか。

 この世の中の動き。例えば電車が動いているのを見てわれわれは電車が動いている!と言う。確かにどう考えても電車は動いているはずである。しかし、おそらくわれわれの身体は、つまり生理解剖学的には、それをばらばらに分解して、例えばところどころの位置の電車に分解していて、再度われわれの心が隙間を埋め流れを作っている、そういう二度手間の作業を行っているに違いない。そういう習慣がついているからこそ、先ほどの二光点の実験の錯覚が起こりうるのではないだろうか。映画はそういうわれわれの知覚の習慣を利用している。

 手品師はきっとわれわれの知覚のメカニズムに精通しているにちがいない。しかし彼は解剖学者ではないし、そうあらねばならぬ必要はない。われわれの見ている景色が網膜上では逆さに映っているといっても、現実の視覚とは関係がないし、逆立ちをして「自分が地球を支えている」と主張しても現実感はない。ふだんわれわれは動いているものを動いているものとして正しく知覚している。生理解剖学的にどうあれ、そういう習慣的現実感をもって知覚している。


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マインドコントロールの効用 9

 われわれはマインドコントロールの下で生きているということの一つは、われわれは言葉の世界に生きているということである。しかしより正確には観念の世界に生きていると言うべきであろう。というのは、言葉はある観念への方向を指し示す道標のようなものにすぎないから。あの山は「あの山」という言葉と厳密に一対一に結びついているわけではない。「あの山」という語は、われわれが見るあるいは思うあの山という観念に向かっての矢印なのだ。そうして大事なことは、われわれ個人個人はまず観念の世界に住んでいるということだ。私が住んでいるところは私の心の中なのである。私とは心の中のもやもやした動きというか力なのだ。そうして言葉(文字や音響)が私に方向を与え、この豊富な世界へ導きいれてくれる。

 会話においては、私は私の文脈の流れの中にまず居る。他人の言葉を聞くたびに、つまり道標を与えられるたびに、私は観念の文脈(すなわち意味)を修正する。文脈の強い流れの中に居るので、同音異義語が出てきても適切な方を選んで了解しているし、多少聞き取りにくい言葉でも聞こえてくるし、方言や間違った発音でなされた言葉でも、われわれは意味において捉えるので、自然に修正している。
 例えば、いま机や椅子など家具の話をしているときに、相手が椅子というところを誤っていずと発音してしまっても、われわれはそれをいすと修正して聞いていて問題がない。誰も伊豆のことなど考えはしない。考えても一瞬のうちに修正して何ら問題がない。つまり、われわれは言葉から意味に向かうのではなく、意味(文脈の流れ)から言葉(道標)に向かうのだ。 読書や会話において、われわれは言葉(文字や音響)に向かってたえず疑義の問い合わせを発信している。言葉はいつも正しい応答をしてくれるとは限らない。要するに、このことで明らかになるのは、われわれが住んでいる世界(観念)とこの世界(文字とか音響とかの物質世界)とは異なるということ、そしてその関係やいかにということである。


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天皇とは

一人の生身の人間が、超越的な観念の対象とされる不合理は、もともと世界中にあった。今でも王を戴く国は、程度の差こそあれ、そうである。しかし、日本の天皇は男系が百二十五代続いてきたことが際立った特徴だ。

一般参賀で皇居に集まっている人々を見ると、さながら女王蟻を巣の中心に置き、働き蟻が延々とした道のりを整然と行き来している様を連想する。日本という国は、蟻や蜂のいわば本能的社会と似ているような気がする。ここではすべての個体が平等ではない、少なくとも一個体は例外である。

ところで西欧に人間は例外なくみな平等だという考えが生じた。生まれながらの階級の撤廃であり、もちろん現実には個体差があってその完全な実行は難しいにしても、頭の中では王侯貴族も平民も金貸し業者も〈同じ人間〉であるという思想が芽生えた。この〈同じ人間〉とはいったいどういう意味であるか、その定義はじつに困難だ。

小生はこの平等思想の発生はやはりキリスト教においてであって、そしてその発端の刺激を与えたのは、あの福音書のイエスの教えであったと思う。
一つだけ例をだせば、例えば百匹の羊のうち一匹が迷ってどこかに行ってしまった。羊飼いは九十九匹を抛っておいて、迷った一匹を探しに行った。つまり、九十九匹は問題にならないのであって、迷った一匹のみが問題なのだ。つまり、神は迷った一人のみを気にかけるのである。そして、迷った一人とは私であり、あなたであり、彼であり、彼女であり、・・・すべての個人なのである。この徹底した、根源的な救済思想、個人個人が神に救われるという点において、人はみな平等であるが来たのではなかろうか。

そうして人々がこの思想の後をぞろぞろと信者となって歩いていくうちに、その集団の中にこっそりと悪魔が紛れ込んだ。この悪魔は外見は信者そっくりなので、いつ紛れ込んだか誰も分からない。そしてその影響力というか感染力はとても強く、誰が最初の悪魔であるかも判らない。

悪魔とはじつは復讐の鬼であって、叫ぶ「人は平等であるはずだ。したがって強い奴を倒せ。美しい奴を倒せ。金持ちを倒せ」と。いつしか悪魔に賛同する信者が圧倒的多数になった。人々は万人平等と口で唱え、その意味は上に出る者を引き摺り下ろせということになった。ついに平等思想が平均化という神を拝む宗教ー社会主義や共産主義という宗教が大きな力をもつようになった。不幸にして学校では学業や運動の優勝者はもみ消されるような〈いびつな〉影響を蒙った地域もでてきた。

 しかし、さすがに人類は進歩して、そのような平等思想は悪魔に誘導された悪平等だとして、見直されるようになってきた。
だが、長年の思考習慣は完全には消し去られることはない。しかも平等思想の根底に宿っているあの根源的な炎は消えることがない。だから、その定義が困難な〈人はみな平等〉が生き続けている頭脳の人々から見ると、(われわれももはやそうかもしれない)どうしても日本の天皇は理性的には理解できない。

いまふとローマ法王のことが頭に浮かんだ。ちょっと天皇と似ているような気がするが、全然違う。ローマ法王は神を守る職業集団のトップである。大学教授と同じように力と選挙で選ばれる。天皇は職業ではなし、血によって決定されている。

世界史を大局的に見て、ハンチントンではないが、世界を幾つかの文明圏に分けることができるだろう。日本は日本一国でとても特殊な文明圏を成している。

日本文明に比較して、西欧文明は、理性的にやはり一段進歩しているように感じる。それは個人個人の心にある超越的観念が集団の秩序を維持しているように見えるからである。それは我彼のうんざりするほどの長期間に及ぶ軋轢から生じた、いわば普遍的(と小生には思われる)な方式であるように見える。もちろん、リスクも大きく、悪魔の反撃をうけたり、暴力を用いたりする必要が生じる。しかし、なんとかそれらを乗り越え、少しずつ進歩していく可能性を秘めている。
それに引き換え、日本民族の秩序維持能力は、より優れている。それはいわば生物学的・本能的であり、天皇という存在をいわばスケープゴートにして、ここに超越的価値をおき、それで秩序を守ってきた。この構成員全員による無意識裡の共同謀議が千五百年以上続いてきたのである。

日本人はもともとの性格が、他の文明国の人人より、意識的に教えられなくても、秩序を守る方向に働きやすい、というのも、民族の秩序形成方法が、原始的な生物学的に深いところから来ているからである。教えられなくても、電車に乗るとき自然に列を並び、街にゴミを捨てず、契約を守る傾向が強いのだ。

しかし日本民族のこの生物的本能的な秩序維持方式は、今後世界の軋轢の中で、上手く機能していくだろうか。
明治まではよかった。いや最近まではよかった。しかし、ものや人の出入りが頻繁になるにつれ、価値や生き方の異なる諸文明がさらに激しくぶつかりあうだろう。日本民族はこの修羅場を乗り切っていかなくてはならない。
さてさてこれからどんな風になっていくか。




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シンクロニシティ?

 一昨日、朝食中寒そうな冬空を眺めながら、昔こういった空に何か関わりのある面白い話でもなかったかなぁと考えて、冬空とか冬雲とか霙とか風花とかいろいろな季語を思い浮かべていた。そして、「冬の日の幻想」という言葉に行き着いた。これはチャイコフスキーの交響曲第1番だったな、どんなメロディだったか思い起こせない。ままよ。「冬の日の幻想」って言葉だけでよい、これはきっとロシアの民話で不気味な話にちがいない、なんて勝手に思い込んで、そのまま忘れてしまった。

 朝食後、車で出勤。いつもの如くFMラジオをつける。しばらくして、アナウンサーが言う「次はチャイコフスキー作曲交響曲第1番・・・」。そして音楽が始まった。な、なんと、これはこれは。こんなことは久しぶりだった。意味のある偶然の一致、シンクロニシティじゃないか。

 たぶんこの偶然の出来事にとくに意味はないのであろうし、こういうことは誰にでも一度や二度くらいあるにちがいない。例えば、ある数字を考えていたら、前を走る車のナンバーがその数字であったとか、ある人のことを考えていたら、その日にその人と遇ったあるいはその人から電話がきたとか。

 小生はある時そういうことが(とは言ってもごく些細なことではあるのだが)よく起こったのであるが、思い返せば、偶然の一致について考えているときに何故かよく起こるのである。そして、その理由として二つのことを考えた。

 一つは、偶然の一致を考えているときは物事への注意が(意識的にも無意識的にも)鋭敏になっており、ふだん起こっている一致に気付きやすくなる、というものだ。この場合、偶然の一致の頻度はいつもと変わらない。

 もう一つは、偶然の一致の頻度は、そのことを考えることによって、増加してくるというものだ。

 もし後者が本当であればとても不思議だ。われわれの思いを強くすることによって、世の出来事が左右されることになるからだ。ふつうこんな風に考える人はめったにいないだろうと思われる。一時流行ったニューサイエンスはそのようなこと、つまり心と物理現象との関係を研究するものだった。今はどうなのか知らん。

 しかし、われわれには、理屈ではどうしてもありえないと思われることでも、こうあって欲しいという思いがとても根強く、お守りを持ったり、神社にお願いをしたりする。その行為で願いが実現するような気がする。しかしこのことは人間の心理的事実であって、別におかしくはない。

 ニューサイエンス風に進化を考えると、例えば、提灯アンコウが提灯を持つようになたのは、とても泳ぎのにぶいある種の魚族が、疑似餌を持ちたいとみんなで強く希ったからだ。また、擬態できる昆虫族はそういう能力を激しく希ったからそのように進化してきたとか。

 昔『アウトサイダー』で一躍有名になった作家のコリン・ウイルソンは、たしか人間は意識的な修行によってでもvision(天才的眼力)を引き出しうるような説をしきりに述べていたことを思い出す。きっと芸術家はそういう努力をしているんだろうな・・・



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 ありがとうございました

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マインドコントロールの効用 8

 しかし、不思議に思うことではあるが、人間は芸術をどうしても必要とする。もちろん無人島でただ一人、食うや食わずの状態であるならば、いわゆる芸術出現の余地はないであろう。だが、そういった時でも、よりよく食料の確保を願い、祈りをあげたり、何らかの呪術的行為をするのではあるまいか。そして呪術はわれわれがいま言うところの芸術と区別することはむつかしい。

 芸術と宗教は同じ母地から芽生えてきたのではないだろうか。宗教はわれわれの生存の不確かさ、つまり死んでなくなるであろうこと、病気などで生活が困難になるであろうこと、何事かをなすばあいに不成功に終わるかもしれないこと、などに対して、安心を与えてくれるようなものである。その一つとして石や大木を拝む行為があるが、それは歌や踊りに発展する。獲物や自然の力を描いたり彫ったりすることはすでに芸術である。身体に刺青をしたり、首飾り(ネックレース)や耳飾り(イヤリング)をするのは霊力を呼び寄せるためであるが、いろいろな模様の衣服を着ることも同じである。要するにおしゃれとは呪術であり、芸術の萌芽なのだ。

 遠い昔われわれ人間がこの世に存在し始めたときから、人間は自然の霊力と一体であると感じていたのではあるまいか。つまり人間とはそもそもそのような生き物ではあるまいか。他の動物から人間を分かつ根本はここにあるのではなかろうか。

 その後、文明が発達するにつれて、宗教は長い間に様々な修飾・変容を遂げて、政治的権力や生活習慣になっていった。また芸術のほうは、一方では彫琢と洗練の極みにおいて純粋芸術となり、もはや行くところまで行って、規範としての〈古典〉としてしか存在の余地はないようにも見える。が他方では、広がりを増し大衆芸術としていわば薄まっていき、享楽物となっていった。もちろん今後どのようになっていくのか知る由もない。
 

         
    

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マインドコントロールの効用 7


 マインドコントロールの話がえらく逸れてしまった。それにしても、コントロールされている〈この私〉とは一体何か。そもそもこの私なるものがあるのか。私と思い込んでいるだけではないのか。思い込んでいるだけでも、思い込んでいるこの私というものがある、とはデカルトの確信だ。いや私という主体はない、じっさいあれこれの映像や音や感情の変容があるだけで、〈私〉と人が言いたいものはいわば知覚の束あるいは感情の変化に過ぎない、とはヒュームの言い分だ。そうなれば、自己というものはない、自己というものがなければ、責任も発生しないし自由も問題になりえない。しかし、現実にはそれらこそ人がけっして逃れることが出来ない問題だとして、一つの解決を与えたのがカントだったか。われわれは性質をもった物質がすでになんとなくあるのをただ漫然と見るのではない。われわれがこの世界に働きかけることに応じて世界の諸相が浮かび上がるのである。経験世界は、それに先立つわれわれの先験的能力によってのみ成り立つのだ。・・・
 それでこの私といわれる一種の力はいちおう置いておく。私は私というそれが何であれ、近々この世を、というより、この肉体を去ることは確実である。私はとりあえず、この両親から派生した肉体を利用し、この両親にいわゆる肉体的にも精神的にも育てられ、この時代のこの地域のこの環境に生きている。だれでもそれぞれがそのようであろう。であれば、誰でも他の誰でもない唯一の存在だ。誰でも独創的な存在であるはずだ。それなのに、なぜ人はすべての人を同じように考えるのか。
 一本の木の桜の花を見て、人はこの桜あの桜と一々言わない。すべて桜の花である。よくよく見てその一つ一つの花について語るときは、その個別性特殊性を見ている。しかし普段人と話をしているときは花一般でいい。犬を見てもそうだ。コップを見てもそうだ。考えてみれば、ものの名とはその有用性を名づけた名である。日常生活においては名が多すぎるのは有用ではない。詳しく〈そのもの〉に注意を注ぎ続ける限り、一般名から遠ざかり、煩雑詳細になって有用ではなくなる。
当たり前かもしれないが、言葉はとてもこの世的なものだ。つまり有用性そのものだ。要するに道具である。しかし、この有用な道具を非有用、すなわち個別性特殊性に迫るような使い方をすることがある。それは端的に詩であり歌であり、俳句だ。ようするに芸術だ。それは、その時の独特のニュアンスの追及だ。それは全くの空想ではない。現に世界にあるものだ。それは世界のある秩序に属している。それはふだん秘められている。あちらこちらにあるのであろうが、絶えず有用性を目指している人間には見えてこないだけだ。そうでなければ、芸術家は苦労することはないであろう。


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温泉での空想

 今日は田舎の家に用事があって、ついでにそこからほど近い山中の温泉に行った。ここは時々行く。とても空気がおいしいところでとにかく気持ちがいい。
 例によって露天で縁石に頭を置いて空を見つめていた。雲が動いていろいろな模様を見せてくれる。自分も空の中にいるような感覚を覚える。そして思う、いったい自分は何処にいるのだろう、自分の意識は地上の一角に限局しているものだろうか。肉体の中にいるとは考えられない。なぜなら肉体とは要するに蛋白質だ、そんな中にいるとはまったく思えない。あるいは、この肉体を通してしか世界に関わりあうことができないのか。しかし、自分は思うところに意識を移すことが出来る。
 意識の底には、無意識があるのだろうか。きっとほとんどが無意識であろう。目の前の知覚や今思い出している記憶以外のものはみな無意識ではなかろうか。ようするに地下の貯蔵庫だ。それがなければこうやって文章など書いてはおれないはずだ。
 そして、広大な無意識には層があるはずだ。すぐ思い出しやすい記憶から、なかなか出てこないがしかし自分の傾向を強く決定しているような深い層まで・・・たとえば集合的無意識なんていう層が。それはある共同体に共通の作用をしている意識。そしてもっと深いところには人類共通の原始的な意識が。それはわれわれが頭で考えてもなかなかその出所が解らないがしかしわれわれの思考や行動を規定しているようなある力・・。
 アーラヤ識という言葉が頭に浮かんできた。この言葉を知ったのは三島由紀夫の最後の小説だ。そして、今日11月25日はまさに彼の命日だということを思い出して奇しき因縁を感じた。三島はあの小説にすべてを投じたと語ったときいているが、彼はアーラヤ識でなにを語りたかったのか・・・今はもう何も思い出せないが、その世界はあたかも素粒子の世界のような次元の話だった印象だ。
 小生のような素人が最近の科学者の物質と反物質、CP対称性の破れとかなんとか、その僅かな非対称がこの宇宙を生み出したとかいう話を聞くと、何かぞっとする。死ぬことよりも何よりも宇宙の誕生の話のがうんと不気味だ。なぜならわれわれは絶対的な〈無〉というものを考えることができないからだ。
 それにしても、徹底的に視覚的人間であり、美の観念の塊のような三島が、最後の作品で混沌たる意識の最深部のことを考えていたのは何故であろうか。
 まあ、この世もあの世も謎でないようなものは一つもない。


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マインドコントロールの効用 5

 われわれはとにかく何らかのマインドコントロール下に置かれている。そして、それを意識的に全国民に及ぼそうとしているのが、いわゆる教育である。教育とは洗脳なり。そして、これは近代国家のみならず、古代から、おそらく人間がこの世に出現してから大なり小なりあったのではなかろうか。

 教育とは何ゆえあるのか。これがない状態を想像すればよい。人々は集団をなして生きている。他の生き物はどうか。お魚や昆虫や植物はどうか。同じ自然環境下であれば、集団はより大きくなり、分化していくように見える。生物である人間もそのように思われる。地球上の人間社会は、地域ごとに異なった教育方針があるとはいえ、教育がない国はない。その目的は集団をより絶滅から遠く、より長く存続させるためにあるように見える。それが根源だ。近代国家はその上に様々なヴァリエーションを施してきたが、近代国家においてもアマゾンの原始人においても、おそらく石器時代の集団においても、根本は同じである。そぼ根源とは何か。

 それは道徳といわれるものではなかろうか。人は嘘をついてはいけない。人は人を殺してはいけない。…これらはみな禁止である。何故したいことをしてはいけないのか。その理由を考えてみるに、嘘をついては円滑に物の交換や売買ができない。気ままな殺人が許されれば、残るは最後の一人だけになろう。それは種の絶滅を意味する。もちろん、例外はあろう。この個体を生かしておけば集団そのものが危うくなると集団が認めた場合である。しかし、それらの理由は漠然としていて、あくまで後付である。理由はわれわれ頭脳人が後で何とでも言うものである。じっさい道徳的強制が生じるところは、言葉や人類が生まれる前、おそらく集団をなして生きる生き物においては、そもそも始まりから、つまりそれは言わば本能の領域のことだ。

 要するに、道徳とは人間が後で作ったものではなく、本能といわれる生物学的領域のものだ。人間においては、何何してはいけないというのは、はっきり言ってしまえば、ことの善悪から逃れることはできないということである。「これは善いことか悪いことか」をどうしても考える。もちろん悪いこともするが、それが悪いことであるということを本能的に知っている。だからこそ人前にも自分に対してもそれは本当は悪いことではなかったのだという理由をでっち上げようとする。それほど人は善悪の観念にとらわれている。それは人間種を存続し続けるようにするものであり、生物としての人間に与えられたものであり、働き蜂の動きを規定するものやライオンの狩の共同作業という形態と同じ意味がある。
 (・・続く・・・)
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脳とは何?

脳は発生学的に脊髄の一部が膨らんだものだ。
生理解剖学的にも、脳は脊髄と基本的に同じ、神経細胞・線維の塊だ。それは、刺激の通り道だ。そこで起こっているのは電気化学現象に過ぎない。違いといえば、脳は圧倒的にその結びつきが複雑なだけである。ちょうどそれは、熱や痛みの刺激に対して考える前に逃避反射(決まりきった行動)が起こることと、色々な行動の選択肢の前で考えることとの違いを、解剖学的に表している。

ということは、どちらにしても、行動が問題なのである。脊髄反射は今せっぱつまった危険から身を守るためにある。脳は多少とも遠い危険から身を守るためにある。そのために、今後の行動の様々を表象しなければならない。というより、行動の中止すなわちさまざまな選択そのものが表象になる。そして、それが認識とよばれるものであろう。あくまで主体の行動~ありえべき行動がまずある。動物にとって生きるとはまず行動することだ。ということは、ものの認識とは後で生じたいわば贅沢品である。つまり、行動なしの認識のための認識が初めからあるわけではない。

それにしても、最近の脳ー認知心理学が教えてくれることは興味深い。例えば、ボールをこちらに向かって投げつけられた時、常にそれを上手にかわすことができるが、飛んでくるものが何なのか全くわからないという脳疾患患者がいる。つまり、脳の複雑さとは、もののこちらに及ばす危険度(スピードや方向)とか、形・色・大きさなど、いろいろなカテゴリーに分解し、統合するのみならず、そのおのおのにたいして、運動神経の方に繋がっているらしい。そして、示唆的なことは、この患者は脳のいわば発生学的に新しい部分が侵されているのであって、旧い部分は正常らしいという点である。

われわれは眼を使って物を見るということは、われわれは眼球、網膜、視神経、大脳皮質の視覚野を使って物を見る。その、どの部分を破壊しても視覚は消える。ということはこれらの経路はすべて道具だ。脳も目や手と同じ経路である。
では、見る主体はどこにある?・・・と問いたいところだが、このように問うことは間違っている。それはどこにもない。ということは、こことかそことかいう語はわれわれのいわば発明した空間という観念であるからだ。空間を前提とした身体について、どこそこと言える。が動く主体たる生命は、空間とは異なるカテゴリーに属する。・・・ある神秘な領域。われわれが真に生きている領域。われわれが描く表象でない領域。
見る主体はどこにある?-まあ、しいて言えば、視覚野の向こう側、と比喩的に言えるかもしれない。



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知覚と存在

普段われわれが物を見ているとは、ただ無意味に漠然と見ているわけではない。
物を見るとは、行動することすなわち外界に対して働きかけることが、世界という混沌から、物を浮かび上がらせるということだ。

だから、知覚された〈物〉とはわれわれの行為のあるいは同じことであるが欲望の関数である。
「鹿を追う猟師山を見ず」なのであって、枝打ちに来た山師は鹿の足跡などは眼中にない。
様様な関心の人が世の中には居る。だからこそ、様々な〈物〉が存在する=表象される。
ゆえに、様々な名詞が動詞が形容詞が・・・・言葉がある。
もともと、それらは、惰性的に無関心に在る訳ではない。それら自体で、われわれとは無関係な『存在』なのではない。

ということは、われわれが全く新しい関心をいだいて世界(混沌)に対峙しつづければ、新しい〈もの〉が浮かび上がる。それは、空想ではない。世界の分析だ。



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脳とは何か?

この頃、新聞などで、脳が喜ぶとかいう言い回しが目に付く。まあ、比喩で言っているんだろうけれど、なんか変な感じがするんだよな、おいらには。
脳は、特別の空想を働かせずに、単純に見れば、神経の塊だな。ってことは、脊髄神経や末梢神経と基本的には同じだな。ただ非常に複雑な結びつきをしているだけだがな。そこでは、化学電気現象が起こっているだけだな。
要するに、身体という物質の一部だな。目とか手とか足とかいうのと同じだな。いうところの道具だな。動物は目を利用して見る。手を利用して掴む。足を利用して走る。・・・・脳を利用して空想する。
脳は物質であるならば、常識的に言って、喜ぶことはないし、世界を生み出すこともない。むしろ世界という広大な物質のほんのごく一部を占める物質であるに過ぎない。
ところで、物質とわれわれが言う時、それは物質という表象をもつことだ。宇宙とか手足だとかいう表象でものを考えている。
まあ、こんなことは、言わずもがな、当たり前すぎてどうしようもない。
ところがだ。脳が世界の表象を生み出すという御仁が居れば、それを聴いて、うんうんと解ったように頷く人がいる。
そんなことはいまだかつて証明されたこともないのに。


                                             

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ゼノンの矢

古代ギリシャのゼノンの逆説の一つ:飛んでいる矢は動いていない。なんとなれば、飛んでいる矢も細かく分割すれば、最終的には一瞬一瞬は静止しているからだと。
このトリックは、もちろん運動を分割することはできない。あるいは運動と軌跡とをすりかえている、と言ってしまえばよい。
しかし、こんな風にも考えると面白いかな・・・。
つまりトリックは、すでに初めの命題にある。「飛んでいる矢」ということによって、〈矢〉すなわち〈固定したもの〉という観念をわれわれに与えてしまっている。つまり、〈われわれの注意〉を運動から静止に移してしまっている。
そう考えると、言葉と言うのは、少なくとも名詞は、実在から或る輪郭のはっきりしたものを取り出している。だから、言葉で運動を直接表現することはできない。
〈運動〉という言葉すら、実在すなわち現実のニュアンスに富んだ変化から、抽象されたものだ。
こういう風に考えると、言葉は実在を捉えるのに、あまり役に立ちそうもない。
では、何のために言葉があるか?
それは生活の便利のためにある。こんなに便利な道具はない。
ところが・・・・
そうでないような場合もある。詩である。和歌である。俳句である。
これらは、いわゆる直接的な意味を伝えるためにあるのではない。ある新しい世界を開くため、言い換えれば、これこそ実在の奥深くに入っていくためにある。
例えば、詩において、同じフレーズが繰り返される。意味を伝えるだけなら、二度も言う必要なない、むしろ無駄である。ではどうして詩人は繰り返すことがあるのか。それは言葉は音楽であるからだ。この言葉の音楽性の追求こそ、ボードレールなど象徴派詩人たちが懸命に追求したものだ。

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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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