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偽問 2

 
引きこもりの人は、一人部屋に引きこもって、いろいろな事を考えているみたいだ。とは言っても、じつは同じことを繰り返し自問自答しているようだけど。先日、引きこもり人と話をしていた。彼が言うには、うんと将来、遠い星の人たちとコンタクトをとることになろう。そのとき人類はテレポーテーションを使って瞬間移動できるようになるだろう、と。

 それに対して小生はこう答えた。テレポーテーションなんて考えられない。われわれは、この物質的肉体を持っている以上、光より速く移動することはできないと。これに対して彼が言うには、「いま考えられないことでも、将来は実現しているに違いない。今われわれが携帯電話でどこの誰とも交信できることなんて、縄文時代の人たちから見れば、とてもとても信じられないことが起こっているのと同じである。いま理論的に考えられることのみを根拠にしてしかものを考えられないのは、非常に視野が狭いのではないか。」

 さて、彼が言うように、小生の視野が狭いのか、それとも彼が行きすぎているのか。・・・それにしても、彼の言うことは絶対に間違っているとは言えないにしても、あまりに先のこと過ぎて、むしろ何とでも言えるのではあるまいかと感じるのである。

 言葉というモノは、遠い昔おそらく実際生活に便利な道具として発達してきたと思う。初めは、木とか火とか石とかいう名詞、そして獲るとか行くとかいう動詞などが発明されたのではないのかな。あるいは動物の鳴き声のように、危険だ逃げろとか獲物があるぞとかいうのが先かもしれない。まあ、なんにせよ、それらは発達して、心の中の思いを、希望や後悔を、そして表せるようになった。その最たる言葉は、日本列島ではカミではないのかな。生活が安定してきて食べるためだけに生きる時間を減らせるようになってきたとき、人は一段と抽象的な事を話せるようになり、ついには物語を生んだ。わが国では、文字を使用するはるか以前に、すでに浦島太郎やかぐや姫の類のサイエンスフィクションを人々は楽しんでいた。
 言葉の組み合わせでもって何でも表せるとなったとき、ひょっとして言葉はわれわれの理屈を超えたものをも表せるかもしれない、そういう実験をしてみようと考える人も出てくる。つとに『万葉集』巻16にそういうのがある。

無心所著(ナンセンス)の歌二首と題して、

  我妹子(わぎもこ)が額に生ふる双六の
        牡(ことひ)の牛の鞍の上の瘡(かさ)
3838

 現代風に翻案すれば、例えば、

 貴女の顔にある三角と黄色い北海道を足すと
     二十四の瞳になる


 となる。文法的(SVOC)には問題なくとも、ほとんど無意味である。

 あの引きこもりの言うことは、小生にはそんなふうな言葉遊びに聞こえるのである。小生は視野が狭く、遅れているのであろうか。

 ところで、言葉が現実の分析に向かうとこんなトリックもできる。紀元前5世紀のゼノンの有名な話。

 アキレスと亀の競争だ。例えばアキレスは亀の二倍の速さで走れる。亀は遅いので、ハンディーとして、だいぶん先にスタート地点を置いてやろう。そうして、よーいドン。
 アキレスが亀のスタートした地点に到達したとき、亀はすでにその半分の距離分前を走っている。次にアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前に行っている。さらにアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前を行っている。・・・この手続きを何万回進めても、つねに亀はアキレスの前にいる。だから、アキレスは決して亀を抜くことはできないでしょ。

  こう問われれば、さてどう答える。    
                        へっへっ



       

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山吹の花

 この季節、わが小庭にもいろいろな花が芽を出し始め、今日はどうなっているのかとわくわくし、朝夕に逍遥して時間が過ぎる。二年ほど前、知人にもらった山吹がわが庭にある。しかし、これは白山吹で、あの山吹色の山吹ではない。品種も違うようだ。どうも面白くないので、昨年の晩夏、思い切って文字通り、すっぱり切ってしまった。  

     白山吹
  
 しかし、植物というのは強いもので、枝がみんな切られても、根さえ付いていれば、また出てくる。これもそうだ。また、反対に五体満足に見えて枯れてしまうのもある。植物の生命の根源、動物に例えれば心臓に当たる部分はどこに在るのだろうとよく考えるが分からない。

 山吹というと、ふと万葉集にある歌を耳にして、ああそうだったのかと微かな記憶を呼び起こして、何といういい歌なんだろうと思った。それは、十市皇女が急死したときに、異母兄弟であった高市皇子尊の作った三首のなかの一首。(158)

  山吹の立ちよそひたる山清水
      汲みに行かめど道の知らなく

 水を汲みに行きたい(ああ皇女にもう一度逢いに行きたいものだ)けれど道が分からない。というのは、その清水の辺りには山吹が咲いている、そのゆかりの色の黄泉路には、生身の私は入っていけないはずだから。・・・それにしても、山吹に面影草との異名があるのはなぜだろう。

 この十市皇女は天武天皇の娘さんで、壬申の乱の敵将・大友皇子の妻であった。ということは、父と夫が戦って夫が殺されたわけですね。そうして、天武の息子さんである(異母兄弟の)高市皇子とは以前から結ばれていたらしい。

 そうして皇女の急死は、壬申の乱後、天武天皇が神々へ戦勝のご報告の儀に出発する、まさにその直前だった。それで、後世の史家は、彼女の死因をいろいろと想像している。

 それはそれとして、この山吹の歌の調べは、わが民族らしい神話的な美しさに満ち溢れている。

あのナルシスとはだいぶん違うね。




     


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偽問 1

ある優秀な中学生が言った、「どうして僕らには選挙権がないの。僕らは、歴史や政治の勉強もしているのに、20歳まで選挙に参加できないなんて、理由が分からない。およそ世の正邪などに心を労することもなく、昼間からパチンコに興じたり、エロドラマを見ている大人たちですら選挙権があるのに、僕らはどうして政治に参加できないの。14歳だからだめだというのは、どんな理屈から出てくるの。僕らはまだ仕事をしていないからだめだという人がいるけれど、僕らは家事の手伝いもやっているよ。
 昔は女性は選挙権がなかったけれど、男女差で選挙権の有無を決めるのはさすがおかしいということになって、今は男女同権でしょ。外国では肌の色の違いで差別があったけれど、今はそんなことで差別しないでしょ。
 人間はみな平等ならば、子供も大人も同権じゃないの。年齢で切るなんておかしいのではないか。」
 
 ということで、彼らは国会周辺で〈おとなこども同権!。アホな大人らも選挙権があるのに、我らにはどうしてないないのか!〉を訴えて大規模なデモをやった。その訴えは全国に次々と飛び火していき、ついには、中学生のみならず、小学生までが同じことを吠えたてるようになった。「人間みな平等。選挙権を我らに!」

 そんなことを暇つぶしに空想してみた。で、もしそうなったら彼らにどう答える。   へっへっ


      


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『地下室の手記』

30年くらい前に読んだものだが、まるで昨日読んだみたいであり、まったく違和感なく、今現在のこととして理解しながら読めた。おそらくこの地下の住人のような思考回路に日頃から比較的親しく接しているためかと思われる。

 思考回路という言葉は好きではない。しかし、この場合そういうのがぴったりである。つまり考えれば考えるほど、結局は同じところをくるくる回っていることに気が付くのであって、それがまた苛立たしく、別の脱出口がたまたま見つかって進んで行っても、また来た道を歩んでいることに気が付いて、絶望的な苦しさを味わう。しかしじつは最初からそのことをすでに予感していて、その予感が達成されたという意識がたえず伴う。そしてその進行には同時にまた強烈な快感を伴うことがあるから救いようがない。

 その昔、ある精神科医が統合失調症の患者を評して〈反省地獄〉と言ったことが忘れられない。患者はある行為をなす、あるいは―この方が圧倒的に多いのであるが―なさない理由を考える。どんどん考え出す。そこでやめときゃいいのに、彼の自意識は強烈で、やめられない。どこまでも言い訳をせざるを得ない。他者に対して、そして、むしろ自分に対して。

 地下の住人は、つねにいらいらして、考えて、考えて、考えた末にやってしまう。しかし決まってじつにドジなことをやってしまう。そして、ここが肝心な点だが、そんなことは初めから自分でもよく解っていたのだ。自分の行為の予見は的中する。それがまた苛立たせる。周囲の人間は、不器用な彼を避ける。自意識という限り彼は正統である。だから、彼は周囲の人たちの欺瞞がよく見える。

 いっぽう彼は、周囲の人たちのいわゆる立身出世、上手な生き方、生活を楽しめること、その安楽で希薄な意識を羨んでもいる。そして同時に軽蔑している。地下の住人は、その理由として自分は「教養のある頭のいい現代人」だから、と言う。たしかに彼は頭がいい。自分の他人に及ぼす影響に関して常に理屈をこねまわしている。しかし彼は成功しない。彼は失敗し続ける。さらに、そういう自分自身をもっとも軽蔑している。

 地下の住人と統合失調症の人とは一見とても似ている。両者とも、小生から見ると、身の丈に合わないところのものを得ようとしている。得られないから、いらいらしたり、絶望したりしているし、たえず自他にたいして言い訳をしている。それは延々と続き、目覚めてはこれは夢だったかと気が付くように、だんだんと深まるようでいて、同じ回路をぐるぐる回っているにすぎない。

 だが両者の決定的な違いがある。それは、地下の住人の心のうちには、その形は漠としているが、方向がはっきりした一つの渇望がある。この絶対的渇望のゆえに、いっさいの地上的現実が明瞭に相対化される。ドンキホーテを、彼の理想と行為をそのままにさせておいて、毎瞬間ごとに反省地獄に陥らせたら、どうなんだろう、とは無意味な想像である。だが、そんな想像をしたくならせるものが、地下の住人にはある。

 しかし、人間が生きる典型とはこういうことではないだろうか。彼の生には何か非常に具体的なものがある。統合失調症の人たちも強い希望をもっている。しかし彼らの生には具体的なものが欠けている。われわれ凡人はその中間ぐらいに漂っていると言えるかな。


       

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山背大兄王

山背大兄王(やましろのおおえおう)は聖徳太子の息子さんです。推古天皇の後継者の一人として目されていましたが、蘇我氏の擁立した田村皇子が皇位に着きます(舒明天皇)。

 その12年後、舒明天皇が崩御されますと、三人の有力な後継者候補がありました。山背大兄王と古人皇子(ふるひとのみこ)と、それから大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)でした。

 蘇我蝦夷・入鹿親子は、山背大兄王を決して皇位につけたくない、中大兄皇子もできればつけたくない、蝦夷の甥にあたる古人皇子をつけさせたいが、反発も大きそうだし、中大兄皇子を差し置いて皇位につけるのは難しそうだと考え、とりあえず、舒明天皇の皇后に天皇の位を授けた(皇極天皇)。

 この御代に至って、蝦夷・入鹿の専横がめだってきます。あまりの振る舞いに、あるとき舂米(つきしね)女王が「天皇でないお前らが、どうして勝手に政を行おうとするのだ」と注意するのです。この舂米女王は聖徳太子の娘さんで、山背大兄王の異母妹でもあり、奥さんでもあるのです。

 聖徳太子には4人の妻がありました。その中で、太子がもっとも寵愛し、多くの子をなしたのが、膳(かしわで)さんという比較的身分の低い出の妻でした。この膳さんが太子の最後まで、まあ生活を共にしたのです。おそらく、あの理想家の太子の心にもっとも適った女性だったのではないでしょうか。そして、舂米女王はこの膳夫人の長女なのです。

 どうも彼女は、幼いころから父の理念を受け継ぎ、自分がいわば宗教的太子一家を支えていかねばという思いが強かったのではないでしょうか。そして夫の山背大兄王は、やはり父の影響を受けすぎと言えるほどで、むしろこちらは仏教的無抵抗を徹底させる人だったのです。性格の強い彼女が蘇我氏の横暴をたしなめたのでした。

 皇極二年10月、突然「蘇我入鹿はこっそり策謀して、山背大兄王一家を滅ぼして、古人皇子を天皇にしようとした。そのころ、こんなわらべ歌が流行った、〈岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁〉 蘇我臣入鹿は、山背大兄王一族の威光が天下に行き渡ってるのが気に食わなくて、自分が君主になろうとした。」という記述が『日本書紀』に出てきます。

 この山背大兄王一族というのは、上宮王達(かみつみやのおうたち)と書いてあるのですが、すなわち斑鳩宮(今の法隆寺東院あたり)に住んでいる人たち、すなわち聖徳太子一族なのですね。雰囲気としては、どうもこのころ、聖徳太子は伝説化されつつ、かつその教えは一般の人々に行き渡っていき、いっぽう現実の政治家はそれを理想論として避ける傾向にあったのではないでしょうか。

 そして、山城王一族は、頑なに太子の理想を守る純潔でややもすれば排他的な秘密結社のように、飛鳥中央政府からは見られていたような気がします。この一族の中心人物が山背大兄王だった。蘇我入鹿らは、この不気味で目ざわりな一族をまず滅ぼすことにしたのです。

 入鹿は、手下に命じて斑鳩宮を襲わせる。山背勢の従者たちは果敢に戦った、その間に山背大兄王は妻や子供らと共に生駒山に逃げる。敵は斑鳩宮を焼き、退却する。大兄王らは数日間、山の中でひもじい思いをして過ごす。このとき、側近が主張するには、「伏見や東部方面には仲間がたくさんいます。今すぐ馬で出かけ、彼らを結集し、軍を立てて戦えば、入鹿軍に勝てるはずです」と。

 ところが、山背大兄王はこう答えたのです、「お前の言う通りであろう。しかし、私の身を守るために、多くの民百姓を使役するのは我が意ではない。もし、戦いに勝ったとしても、そのために父母を殺されたと、後に言われるのがイヤである。戦うより、わが一身を捨てて国の平安をきたせば、それも立派な男の道ではないか」と。

 それで結局、山背大兄王一族は山から斑鳩に帰還して、その寺で全員(一説に23人)自殺するのです。これでもって、聖徳太子の死後22年目にして、太子一族は消滅します。『書紀』は、こう続けています。

 〈このとき、五色の幡と蓋(きぬがさ)、妙なる音楽を伴った天女らの舞が、空から現れて寺に降りてきた。人々はそれを見て感動した。しかし、入鹿が見るとただの黒雲になってしまった。〉磔のイエスが息を引きとったとき天幕が裂けたというのとはだいぶん趣が違いますね。

 入鹿のお父さんの蝦夷が、これを知って、「入鹿の奴、愚かなことをしやがって、そのうちにおまえらも滅ぼされることになる」と言いました。

 翻って思うに、山背大兄王はあまりに仏教的理想主義者であったのですね。戦うことより死を選びました。しかし、いろいろ疑問が残りますね。死ぬ前にどうして一族を引き連れて山を彷徨し、下山して皆を道連れにしたのだろうか。早く一人で死ねばよかったではないか。また、その前に、どうして入鹿たちに、正々堂々と己の立場を主張しなかったのか。大義はこちらにあるはずではなかったのか。父聖徳太子の威光もまだ残っていたはずで、側近が奨めたように、周辺の仲間を結集すれば、戦いにも勝てたはずではないか。

山背大兄王一族の消滅は、聖徳太子自身が蒔いた種から生じたように思われます。時代を超越した人。あれほどの仏教帰依者、あれほどの理想家、あれほどの行動家から思想家への純化。その遺産を、たとえ優秀であったとしても普通人であった息子が背負わされてしまった運命を思うのです。彼は最後まで迷った、だからこそ、どの道を選ぶにせよ潔さがなかったのだと思います。

政治に善悪はないと言われますが、にもかかわらずわれわれは善悪を気にせずに生きてゆくことができません。それをいいことに、現実政治ではそういう人間の性質がたくみに利用される。政治に利用された瞬間、それは善悪ではなくてプロパガンダに堕しますね。

しかし宗教は個人の心の善悪を深く追求します。ところで誰か答えてほしい、自分の感情に忠実なることは、たとえば、家族を殺した者にたいして怒り、復讐することは善でしょうか悪でしょうか。さあ、これを考え出したら、人は世界宗教の入口に立っている、そして聖徳太子は、例えばその疑問から出発したのです。そして、その遠い帰結は悲惨な一族全滅でした。





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鎌倉に行く3

 お昼を食べて、親戚の家で少し休憩をしてから福井の従兄弟といっしょに帰ろうと考えていたのだが、従兄弟が名古屋から福井までの列車が夜発しかないというので、それまで暇ができたので、一人、神奈川県立近代美術館葉山に行ってきた。なぜかというと、金山康喜という画家の絵を最近テレビや新聞で知っていて、多少気になっていた、そこへ、たまたまこの日に、彼の絵画展のポスターに目がとまったから。 

   金山康喜1

この人の絵の魅力はなんだろう。青の層への探求、そして日常の平凡なモノからなんとかしてその三次元性を剥ぎ取って、その表層の名のみ残し、しかるべき位置に配置しようとする、しかしその困難さ・・・そして、彼は33歳で早世したのだった。

 帰りバスの窓には、午後の光で照らされた相模湾が続いていた。とつぜん砂浜に陳和卿が造った船が朽ちてゆくのが幻のように浮かんだ。

   春の海 見果てぬ夢の 昔かな

 なんとなく心が落ち着かないまま、さらに時間があったので、八幡様の隣りにある県立美術館別館に足を向けた。ゴヤ、ドラクロワ、ルドン等の版画には、これまたまったく別種の異界からの誘惑を感じた。

 幻想の系譜1 幻想の系譜3


親戚の家に戻って、やはりルーツ的好奇心を押さえられず、この親戚I家の過去について尋ねた。すると、待ってましたとばかり、ご主人が系図を見せながら語るところによると、彼のお祖父さんの兄弟が、いまテレビでやってる松陰先生の義弟の小田村伊之助の子供の養子となって小田村家を継いでいるそうだ。世間は狭いもんだね。


     

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鎌倉に行く2

 明くる日の午前、鶴岡八幡宮に参詣す。鎌倉という都市の由緒はこの八幡宮にあり。都から遠く離れた鎌倉で征夷大将軍を任命された源頼朝周辺の武士団たちが政治に携わりはじめた時、いかに世の中が不気味な暗闇に蓋われてわれていったか。その暗黒はこの八幡宮の参道における源実朝暗殺に極まる。

 実朝という稀有な人間の存在が、その死によって、力と欲望の歴史の流れの拒絶を貫いたという印象を受ける。小生はどうしてもその現場を見たかった。目印の大銀杏は、ちょうど三年前の春、強風のために倒されて、今は根と幹の一部が残っている。

 鶴岡八幡宮1


 実朝暗殺。小生は、彼は殺されたというよりも、殺されることを知っていて、殺されるまでの経過を素直に自ら進んで演じていったように感じられる。将軍とならざるを得なかった身分でありながら京の文化とりわけ歌壇に強く触れた鋭敏な青年が、己の死を予感して生きた。もっとも不穏な状況に、もっとも裸の鋭敏な魂が生きた証は『金槐和歌集 巻之下』に尽くされている。

 ゆく舟を見ては、百人一首にも採られているこの歌

  世の中は常にもがもな渚漕ぐ
     海人の小舟の綱手かなしも


 世を歎いている人を見ては、

  とにかくにあればありける世にしあれば
     なしとてもなき世をもふるかも


 そしてこころとは、

  神といひ仏といふも世の中の
      人のこころのほかのものかは


 そして入り日を眺めて詠う、

  くれなゐのちしほのまふり山の端に
      日の入るときの空にぞありける


 鎌倉のために右大臣に昇進した彼には、もはや為すべきことがあったであろうか。雪の降る夜、鶴岡神拝を終え、石階を下ったところで、銀杏の蔭から刺客が飛び出てきた。実朝の体から鮮血が迸った。

               *

ついでに、すぐ裏にある建長寺という寺に寄った。ここの参道にある桧の立派さには驚いた。

  建長寺


概して、鎌倉には巨木が多い、そしてまたリスをいたるところで目にした。


          


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鎌倉に行く1

かつて本当に行ったことがあるのか、それとも夢の中で行ったのか、あるいはエピソードや写真からあたかも実際に行ったかのような記憶が作られていったのか、…そういう場所があるものだ。小生にとって鎌倉がその一つである。

 たしか、そのむかし鎌倉駅で乗り降りしたことがある、線路や混雑したホームの状況は浮かんでくる。しかし、鶴岡八幡宮はまったく記憶にない。大仏の前に立ったことがあるようなないような…、という感じで、じっさいには鎌倉には行ってないような気がする。

 福井の従兄弟が、彼の姉の嫁ぎ先の鎌倉へ叔母を連れていく、それに合わせてわが娘も鎌倉へ行くという、ならば小生もということで、鎌倉に向かった。電車を二回乗り換えて、鎌倉駅のホームに降り立ったとき、高架になっているし、周囲の雰囲気はあの時と違う、やっぱり来たことがないかな、と思った。しかし、あの時とはもう何十年の隔たりがあるから変わっていて当然だ・・・。

 従姉妹の嫁ぎ先の家は駅から歩いて6・7分の所にある。御主人にまず、駅の構造は昔と変わっていないかどうか尋ねたところ、変わっていないとのことであった。やはり小生は鎌倉には来ていないにちがいない。

ところで、さらに今回あたらしく勘違いをしていたことは、駅は高架だと思いこんでいたことだ。じっさいレールは地面の高さにあって、改札口が地下にあるだけなのである。このことを、帰って来てから頭の中でハッキリ確認した。この確認がなければ、あるいは確認しても、十年後にも、鎌倉駅は高架になっているという印象に強く支配され続けている可能性大である。

 親戚に行く前に、じつは先に北鎌倉で降りて、東慶寺に寄った。どうせ鎌倉に行くのなら、小林秀雄の墓参りをしておこうと思いたったからだ。参道の両脇には梅がまだ見頃で、それらの多くは概して、早くに成長を断念したような奇怪な小さな老木で決して美しい形ではない。しかし、それらが一様に参道に並んでいるところを歩いて行くと、わざとそのように造られたようにも思われて、こういう木訥というか、一見飾り気がないような、この感じがなかなかいいようにも思えてくる。これはこういう種類の梅なのか、狙って作ったものか、剪定はどうしているのか、今にして思えば、あのとき掃除をしていた庭師風情の二三人が居たが、その人らに訊いておけばよかった、残念無念。

東慶寺1  東慶寺2

 墓地と言っても平地にぎっしり並んでいるようなのではなく、大木が散在する苔むした山裾のなだらかな斜面に、墓石がぱらぱらと散在している。とても静かで、鶯などの鳥が鳴いている。ふだんから墓は要らぬと公言している小生でも、こういうところに眠れるなら墓もいいものだと思った。

   東慶寺3


この寺はもと尼寺で、縁切り寺とも言われ、女性のための駆け込み寺であったそうである。この寺の衒いのない柔らかい雰囲気はそのゆえであろうか。ちょうどやっていた仏像展を見て、帰りがけ目の前にある円覚寺にも寄った。ここはまた立派な山門をかまえた広い寺である。臨済宗の一本山、北條時宗の開基。座禅道場を有するとのこと。

 午後、親戚の家に行った。従姉妹はわれわれのために、うどんを作ってくれた。曇りだったけれど、御主人が由比ガ浜と江の島を見せてあげようと、車で案内をしてくれた。途中でとても車が混んでいたので、江ノ島までは行かず、大仏まで送ってくれた。この大仏さまは、見ようによってはえらく猫背で、長年の風雨の影響か眼の下が暗くよどんでいて、悩んでいるようにも見えて、また頬の辺りの継ぎが露骨で、ちょっと怖い印象を与える。

小雨がぱらぱらする中、すぐ近くの長谷寺へ。大きな金箔の十一面観世音菩薩像が力強く見える。奈良の長谷寺とはこの観音像の深い奇縁で結ばれているそうな。

  ありがたや 春雨けぶる 堂のうち

それよりなにより、ここには、巨木がいくつか立っていて、これに目を奪われた。

長谷寺


   観音の 威光を受けて 育ちけり

           

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惜春

今年はわが家の梅がよくない。上の3分の1に花がない。なぜか解らないが、昨夏の降水量が少なかったのか。大きくなった割に栄養不足だったのか。いろいろ想像する。しかし、よくないと言わず、これが今年のこの梅の姿で、これはこれでよしと前向きに考えよう。

   このたびは 花を減らして 粋に立つ

   H.27梅


数日前から散り始め、霰や雨で流され、さらに二日前の強風によって、あはれ花びら空に舞う。


   散りそめし梅のかをりもこれまでと
      胸いっぱいに深く吸い込む


  惜しいかなめじろひよどりはとも来て
      残り少なき花を散らすも


  ゆく春のゆふぐれ時の梅の花
      散り敷く庭の白のさやけさ


  幾春のよろこびくれし老いの木に
      今宵感謝の宴をなさむ


  花散りて闇は広ごりわが庭に
      またふたたびの春やくるかも




        


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ルーツ2

小生の父は養子である。だから小生は、母方の祖父母と一つ家で育った。とはいえ、祖父は小生が2歳のとき亡くなったので、はっきりした記憶がない。強いて言えば、一番古い記憶と思うが、自転車の前の方に子供用のシートが付けてあって、そこに乗せてもらい、田んぼに行って、あぜにしゃがんで手ぬぐいでメダカを掬ってもらった記憶がある、そのとき乗せていってくれたのが、ひょっとして祖父だったのか、あるいは父だったのか、定かではない。

 母や叔母から聞いているのは、祖父は小生が生まれると、三代目にしてやっと男の子が生まれてきた、めでたいことだと言って、とても小生をかわいがってくれたそうである。それで、小生は、はっきりした記憶がないこの祖父が小生を背後から守ってくれていると、いつしか信じるようになった。車の運転などで、ひやりとした経験をしたときなど、「あっ、お祖父さんが助けてくれた」と、つい人前でも口に出てしまうことがある。

 この祖父も養子であって、彼が生まれ育った所は、小生が生まれ育った家から7~8キロメートル離れた井田川という村だ。今は鈴鹿市に入っている。姓は宮崎という。祖父がわが家に来る前、じつは他に養子が決まっていた。しかし、その人が20歳になる前に結核で亡くなったため、急遽新しい養子候補を探した。なぜ宮崎家の二男である祖父がノミネートされたのか分からないが、宮崎家には12人の兄弟姉妹がおり、そのうち男子が○○人いた。当時、祖父は医者になるべく、東京の予備校で勉強していた。しかし、急遽わが家に養子になるよう要請されて帰郷した。わが家は代々、肥料商を営んでいたので、祖父はそれを継いだ。

 ところで、祖父の出である鈴鹿市井田川の宮崎家には、小生いつだったか…たぶん小学校の低学年くらいのとき2・3回連れて行ってもらったような気がする。その家の玄関先のたたずまいをはっきり覚えている。もう一度、そこを訪れたいと何時しか思うようになっていたが、是非にという気持でもなかった。

 ところが、12月だったか、ちょっと亀山市に用事で出かけたとき、たまたま亀山歴史博物館での講演会の予告ポスターに目がとまった。それは郷土の名士の一人である服部四郎という言語学者についての講演であった。演者はその人の御子息の服部旦(あさけ)という人である。そのポスターを見たとき胸が高鳴った。というのは、服部四郎さんは祖父か祖母の従兄弟であると母から聞いていて、小生はその繋がりを確かめたいという思いも頭の片隅にずっと残っていたからである。これは僥倖だ。もし、演者の旦さんに尋ねれば、その辺りの関係が判るかもしれない。

 そして、講演の日、3月1日が来た。講演の後、小生は旦さんに祖父母の名前を書いて、四郎さんとの関係を尋ねた。しかし、旦さんは分からない、しかしこの歴史博物館から少し行った鈴鹿市にある佐々木信綱記念館に藤田家の本と系図があるから、それを見ると分かるだろうと教えてくれたので、歴史博物館の係員にその本について訊いたら、すぐもって来て見せてくれた。それで、祖父と服部四郎さんとの従兄弟関係が明瞭に分かった。長年の便秘がすっきり治った気持であった。

   亀山1


 さらに、その直後たまたま祖父の甥にあたる人の奥さんであるという人に出会えた。そしてその人は、やはり藤田家系図のコピーと、わが家のアルバムにもある宮崎家の写真のコピーを持って来ておられて、それで確認させてもらった。その写真は、昭和16年1月3日に撮られたもので、祖父を含め12人兄弟姉妹が写っていて、この曾祖母の多産のゆえに表彰状が添えられている。

そしてなんと帰り、気にかかっていた井田川の宮崎の家を教えてあげようと、そこまで車で案内していただいた。 ああ、たしかに小生の記憶に残っているあの家だ。50年以上ぶりだ。そして今の当主にも会えた。確かこの人は、あの時まだ若々しい青年だった。昔のアルバムで知っている。向こうも小生のことをよく知っていてくれた。

   亀山2


 なんと実りの多い一日だったろう。神のお導きとしか言いようがない。後世のためにしっかり書き残しておけ、それがお前に託されたささやかな仕事だ、と言われたような気がした。



     


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『The unlikely pilgrimage…』

 三か月くらい前、知人がくれた本がある。英語の小説なので、なんとなく敬遠していたのだが、せっかくもらったのだし、冥土の土産ってことかもしれない、まあなんとなく読んでみようと読みだした次第だが、なかなか面白く、小生の拙い英語力でもずんずん引き込まれてしまった。

 『The unlikely pilgrimage of Harold Fry』という2012年に出た小説。主人公ハロルドは背の高い、しかし臆病でおとなしく、まあ凡庸といえるこの男は、イギリスの南端の都市に住んでいる。定年退職後、仕事と言えば庭の芝刈りくらいか。子供はいない。かつて息子が一人いたが、20年も前に自死してしまった、それからというもの妻との間には隙間風が吹きっぱなしで、形ばかりの家庭をなしている。

 ある朝、一通の封筒が届く。開いてみると、それはずっと以前、ハロルドの職場でしばらく一緒だった女性キニーからだった。彼女はいまガンを患っていて、遠く離れたスコットランドの、あるホスピスに居るということだった。それで彼は返事の手紙を書いて投函しようとするが、ポストの前に立つごとに、こんな文面でいいのだろうか、と投函をためらう。そして、バーガーを食べるために立ち寄ったガソリンスタンドの女の子とおしゃべりをする。

 女の子はハロルドの話を聞いて言う、自分の叔母もガンを患っていた。でも前向きな気持ちでいなくちゃ。人間の心にはまだまだ理解できないことがいっぱいあるし、それを信じて進まなくては云々。宗教的信念とはふだんから無縁のハロルドは、しかしこの女の子の言う信仰という言葉が頭から離れない。それは宗教的なものではないと少女は言うが、小生に言わせれば、その態度はまさに宗教の普遍的発端に立っている。

 ハロルドは、突然電話ボックスに飛びこみ、ホスピスに電話する。返事を待つ間、自分がいる街から、1000キロも離れた病気の女性がいる街への道路や川や山などを想像する、そのとき突然、決心がやってくる。彼は電話に出たホスピスの職員に言う、今からそちらに向かうから、それまで待っているようにキニーに伝えて、と。

 なんの躊躇することがあるものか、彼はそのまま北に向かって歩き出した。1000キロメートルの歩行の旅、まさにそれは贖罪の行為すなわち巡礼に似たものだった。決して健康とは言えない彼にとって、道中は困難を極めた。ほどなく足にマメはできる、化膿はする、脚がつる、・・・。しかし彼はいろいろな人たちと出会って、それぞれの人がいかに彼ら独自の問題を抱えて生きているか、そして歩く理由を語る彼にいかに多くの人たちが共感してくれるかを知る。

 様々な人たちとの出会い。イングランドの町や自然の風景を彼は今更のように見つめる。それらが絶えずヒントになって、彼の頭に自分の過去の生活が繰り返し蘇る。両親の思い出、妻との出会いそして結婚、息子への無理解と彼の自死、冷たくなりゆく夫婦関係。勤めていた会社におけるキニー。それらが蘇るたびに彼の理解は深まる。新しい人たちとの出会い、自然の風景、そして記憶のフラッシュバック、これらが混然一体になって、物語を展開させる作者の手腕はさすがと感じた。

 出発して目的のホスピスに到着するまでの87日間には、様々な紆余曲折があった。道を間違えたり、また彼の〈巡礼〉に賛同して付いてくる人たち、賛同者が多くなればなるほど誤解も増え、マスメディアも飛びついてきて、ゴシップのネタにする。終わりのほうで彼は疲労困憊し、旅を諦めようともする。しかし、ついにホスピスに着いた彼は、一人の修道女に案内されて、キニーに逢うことができる。だがすでに彼女は話ができる状態ではなかった。

 キニーの死ののち、修道女はハロルド夫妻に夕べの祈りに同席する許可を与える。薄暗い室内で、二人が思い出していたのは彼らの息子の死だった。そのむかし息子の死を諦めきれず夫を責めた妻は、いまそのことを彼に謝る。そして思う、how a life is not complete without meeting its closure.…If we can’t be open, if we can’t accept what we don’t know, there really is no hope.(人生は死の後にはじめて完成する。…もしわれわれが心を広く開いて、知り得ないことをも受け入れなければ、希望はないだろう)

  この本の表紙に the Sunday Times bestsellerと書いてある。なるほど、本当にこのような本を多くの人が読み、しみじみ感じるところがあるならば、それは文明国と言える。それに対して思う、豊かになった人々が高額の炊飯器や便座を買いあさるようになっても、それだけでは文明国ではない、と。


     

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ルーツ

わが家には系図が残っていて、それを見るとわが姓は鎌倉時代初期に作られたと書いてある。その経緯についても記載があって、『吾妻鏡』にも似たような状況が触れられていて、家名を重んじるご先祖が、こういう歴史書に関連づけて書いたのかもしれない。

 この系図によると、わが御先祖は室町時代には四国の讃岐に住んでいたことが判る。その時の何某が親に勘当されて(たぶん永享の乱(1487)で反幕府勢力についたためか)、京にのがれ、そこで知り合った朝倉氏に拾われ員弁(いなべ:現四日市市)に下った。7・8年くらい前、讃岐に行って祖先の菩提寺であったと思われる志度寺を訪ね、その頃の過去帳を見せてくれと頼んだが、そんな古い過去帳はもうぼろぼろで見せることはできないと断られた。

 なんでわが家にこの系図が残っているかというと、小生の5代前の杢米さんが江戸後期に員弁から家出をして鈴鹿の関に分家を為したのだけれど、その後、なぜか員弁の本家の重彦さんという人が明治33年に原本の巻物の系図を冊子に書き写してくれてあって、それがたまたまわが家に残っていたわけである。

 5・6年前に、この杢米さんが出てきた本家を知りたくて、苦労して見つけたことがある。昔庄屋さんをしていたという広い土地に一人で住んでおられた女性は、小生と同年代だ。そして重彦さんは彼女のお祖父さんとか言っていたが、しかし恐らく曾祖父ではないかと思う。小生の曾祖父母には実子がなかったので、彼女と同じ家系とは言え、とっくに血縁関係はない。

 ところで、小生と血のつながりのある父方の祖父母についての話は、父からほとんど聞かされていなかったし、そもそも父がどこで生まれたのかも知らなかった。つい最近になって、とは言っても10年くらい前に親戚筋から父は大阪生まれだということを耳にしたことがあったが、しかし父の死後、父方の親戚とは小生はあまり付き合いがなかったし、関心もなかった。

 ところが、2年くらい前、父の胤ちがいの弟が亡くなったとき、その奥さんから、相続の関係で戸籍謄本を見せてもらったのだが、そのとき父の祖父母が兵庫県出身であることを知って、大いに驚いたと同時に、彼らの生まれ育った所を知りたいと思った。例の如く、いつか行こうとは思っていたが・・・。

 祖母の出は、このたび改修を終えたばかりの姫路城郭のすぐ西側の材木町というところだ。旧姓を辿って一軒一軒を調べ、玄関の花に水遣りをしていたおじさんに尋ねても判らなかったが、まああのお祖母さんは結婚するまでこの辺りで育ったのだなと思ったことで良しとした。

  材木町1  材木町2
 


 ところが、祖父の出場所はよく判らなかった。戸籍に記されている住所は今はない。事前にインターネットで調べて見当はつけていたが、かなりいい加減で自信がない。それにあちこち歩き回ると疲れる。だからまず、叔母に見せてもらった戸籍謄本を出した竜野市(現たつの市)の役所を訪ねた。それが正解で、係員が調べてくれて、その場所は現在のこの辺りだと、ゼンリン地図を広げて、行き方を教えてくれた。

 その辺に行った。表札を見て回る。しかし、人影はない。全部の家を回ることは難しそうだ。かりにピンポンしても殆は出てきてくれまい、まあこの辺りということで良しとするか、・・・と思って諦めようとしたとき、近くの大きな家にお婆さんが入ってゆくのが見えた。これはチャンスと駆け寄り、かくかくしかじがの理由で石原家という古い家を探している、と訊いた。お婆さんは、この辺りには石原さんという家はない。しかし、たしかもっと南の方に石原という人がいたよ…、と言ってくれた。しかし役所で教えてくれた場所とはちょっと違う。どうしようと一瞬迷ったが、せっかくここまで来たのだから、行ってみることにした。

 それは、お婆さんの家から、1キロメートルくらいの所だろうか、広々した田園地帯で、田んぼの間に所々家がある。みな大きな家である。さっそく覗いた家の表札は、なんと石原であった。ドキドキする呼吸を整え、怪しまれぬために要領の好い説明を頭の中で繰り返してから、ピンポンを押した。

 ところが誰も出てこない。シーンとしている。門を押してみるが開かない。たぶん出払っているのだろう。しかたがないので、近くの家を当ってみる。と、次の家も石原だ・・・。そうか、この辺は石原一族の土地なのだ。きっと祖父の生まれた土地に違いない。そう思っただけでじんわりと喜びが胸に広がった。


  石原家2  


次の家にはピンポンがない。表門の引き戸を引いてみる。おっ、開いた。無断でそっと入って南向きの家の玄関に近づく。左手にある庭の向こうの部屋の廊下に座っている人影を見たので、庭石を渡って近づいた。向こうも怪しい人影を感じたのか、廊下の窓をそっと少しあけ、こちらを覗く。なんだこの不審者めという顔つきだ。小生は不意を突かれた感じで、ちょっとぎこちない挨拶と説明をした。しかし、向こうのは黙ったままでこちらを見つめる。なかなか不審を解くことができない様子だったので、戸籍謄本の写しを見せた。

すると、なるほどこの筆頭の人はわが家の曾祖父の名前だ、ちょっと待ってくれと言って、玄関から出てきてくれた。そしてなぜか今まで小生が歩いてきた門前の道に小生を誘い、広々とした田んぼのあちこちを指さしながら、辺りの地理の説明をし始めた。なんで、急にこんなことを饒舌に語り始めるのだろうと、今度はこちらが不審顔。

彼が言いたかったことは、その昔は江戸時代、石原の何某がいて、この辺り一帯の土地をもっていた。元禄時代、赤穂事件があったとき、その報を赤穂に伝える役目をしたらしい。しかし、明治の初め、この長男が、―小生が手にしている戸籍謄本の二人目の人物を指さし、―やくざ者になったたため、家から追放されたので、その弟であるこの音吉さん(曾祖父)が家督を継いだ、彼はとても真面目な働きものだったので、さらに広い何町という土地の地主になった…マーカーサーの来日後、わが土地は4反に減った、云々。

「とにかく、音吉さんがあなたの曾祖父ならば、小生の祖父はその弟だから、われわれは血のつながりがありますね」と小生は確然とした口調で言った。(じっさいは、一代経ると2分の1とすると、128分の1と薄いけどね。)それから、彼はまた小生を自宅の庭に誘って、この庭は自分が自分の趣味で造った庭でねと木々の説明をし始めた。庭を掘れば昔の石がいくらでも出てくるから、それをいくらでも利用できるのだ。あなたのお祖父さんが居たころのもので残っているものは、この銀木犀くらいかな、と庭の隅に在るやや大きい木を指さした。小生は、おおこれが祖父が見たものか触れたものかと思うと、とても懐かしい思いがして、何度もその幹をなでた。そしてその前で二人並んで記念写真を奥さんに撮ってもらった。

  石原家1


奥さんは、小生の顔を見て、そう言えば親戚の誰誰に似ている所があると言った。しかし、そう思ってみれば誰でもどこか似ている所があるのじゃないかな。そして、小生と同じ病を克服した人のことが書いてあるから、これを読めと言って数冊の雑誌を貸してくれようとした。小生は地元でもこの雑誌は読めるし、その御心だけで有り難いと言葉を返した。

石原さんは、すぐ近くにわが家の墓があるからといって、そこに小生を連れていった。広々とした田んぼの一角。また、彼は土地の話をながながとし始めた。小生は一通り墓石に頭を下げ、辺りの風景を記憶に刻みこんだ。もうこれでいいという気持ちだった。

それしても、顔を知ることもない祖父の生まれ育った家があった所に来ることができたのは、あの市役所員とたまたま遭ったお婆さんと小生の無礼な勇気のおかげであったのだ。帰りの駅まで歩く途中でうどんやに入ったが、小生の好みの味ではなかったのが残念であった。まあ、何もかもそううまくいくまい。


     


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ゴジラ

映画と言えば、昨年見た『ゴジラ』を思い出したが、今から思うとなんであれが『ゴジラ』なんだ。主役はあの鳥のような昆虫のようなムートーとかいう怪獣じゃないか。
 おそらく〈ゴジラ〉というネームヴァリューを優先させたのであろう。『ムートー』なんてタイトルの映画だったら見に来る人は少ないだろうな。『ゴジラ対ムートー』としても、昔に『ゴジラ対なんとか』シリーズの続きみたいで、もういいよという気分。

 小生が子供のころ、ゴジラという名前は迫力があった。それはまさに原水爆の威力の象徴だった。圧倒的な力で自然を破壊してしまう。人間はほんらい自然の前では無力なのであるが、われわれの科学は自然を構成している原子の秘密を知りその力を利用できるようになってしまった。それがために自然の制御を通り越して、自然を破壊し、さらには抹殺しえるようになった。そしてそれを為し得るようになった人間は自身をコントロールできないのでは、という恐怖を人々は感じ始めていた。

 2014年のこの日米合作の『ゴジラ』においては、あの津波でやられた福島原発事故に想を得ている。原発事故後の施設でムートーの育成をしていたところ、その怪獣は一気に育ち、施設から脱出して姿を消す。以前からそのあたりで振動(超音波?)が繰り返し聞かれたが、それが遠く離れた番(つがい)の相手との呼びかけであった。

 ムートーの番はアメリカ西部の核施設に向かっていた。栄養源としての放射能を取りに行くためである。いっぽう南海のどこからかゴジラが現れて同方向に急接近している。それはゴジラの狩猟本能に導かれてムートーを目指していたのだ。

 それを知った対策本部は核弾頭を囮(おとり)にして怪獣らを太平洋上に誘い出し、そこで集まった三匹を一挙に核爆発で殺傷してしまおうと目論んだ。そして、核弾頭を列車で港まで運ぶのだが、途中で核の匂いに敏感なムートーに見つかって奪われてしまう。雌のムートーは港にほど近いところで核弾頭の周りにぎっしりと産卵する。

 そこへゴジラが海からぬっと出てきて、激しい市街戦となる。最終的にムートーの番は死ぬ。死力を尽くしたゴジラもその場で倒れる。その戦いのさなか主人公は石油パイプを切って産卵場所を石油の海にし、そこへ火を放て卵を燃やしてしまう。そして核弾頭をボートに運び沖に向かった。そしてどうなったか忘れたが、たぶん時限発火装置を止めたのではなかったかな。明くる日、横たわっていたゴジラが目を覚ました。人々が驚くなか、ゴジラはゆっくりと海に入り姿を消す。

 興味深く感じたのは、ここではゴジラは人間世界にも核爆弾にもまったく関心を示さなかったことである。結果的には、核を必要とする怪獣を倒し人間世界を救ったことになったが、わざわざ南海から泳いで来たのは、ただただムートーと戦いたかったためである。ゴジラは昔日の核の威力の象徴から、もはやその役割は他の怪獣に譲り、ここではもの言わぬ圧倒的な神のような存在になった。


     

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第二次世界大戦

 先日『Exodus』という映画を見た。この頃の映画はやたらCG技術を駆使した見せ場を売り物にしている。この作品もその例に漏れず、ナイル川が血に染まり大量の魚が浮いたり、ハエやイナゴや蛙の大量発生する場面など、いわゆる「10の災い」の部分は、ちょっとしつこいな。

それにしても、モーゼと名付けられた人は実に謎めいた人だ。ユダヤ人にとってのキイパーソンの出生を『聖書』はどうしてあのように描いたのだろう。…そしてユダヤ人というと、どうしても世界大戦を連想してしまう。ところで、小生は以前から第二次世界大戦という言葉に違和感を感じていたので、それをちょっと話したい。

 とくに外国人がWorld War 2 で日本がどうしたのこうしたのと言うのを聞くと、どうもちょっと変な感じがする。たしかにあの時、1940年代に世界の文明国が同時に戦争に参加していたし、名目上は日独伊三国同盟を結んでいた。しかし、日本はアジア・太平洋で、蒋介石軍と英蘭などと、後に主にアメリカと戦ったのであって、正しくは大東亜戦争、四捨五入して太平洋戦争と言ったほうがピンとくる。

 西尾幹二氏が書いていたが、大東亜戦争とヨーロッパの戦争とは意味が違う、前者はアジアの領土と資源をめぐっての争いで、ざっくり言えば、日本とアメリカの、国家のエゴイズムがぶつかりあったのだ。しかしドイツを中心とした戦いはキリスト教文明圏の内戦なのであって、だからあのおぞましいジェノサイド(ユダ人大虐殺)は、われわれ日本人には理解できないものだ、と。

 つまり、日米の戦争は、もっぱら領土・資源の奪い合いのための戦争であって、たしかにじつに多くの兵士が悲惨な死に方をしたし、かつまた多くのとばっちりを諸国に与えたりもした。しかし、本質的には、欲と欲のぶつかる喧嘩であって、誤解を恐れずに言えば、男らしい明るい戦争であって、終わってみれば、互いの兵士が「あの時はお互いよく頑張ったな」と言いあえるのだ。

 ところが、ドイツの戦争には、もちろん領土問題もその発端にはあるだろうけれど、彼らの戦争の本質にはもっと深いくて暗いもの、けっしてぬぐい去れないスティグマがどこかに残っている。敗戦国のドイツと日本は、戦勝国から悪者としての烙印を押され、謝罪と賠償とを科せられた。負けたからにはそれはしようがないとして、しかし、ドイツと日本は、謝罪するにしても意味がちがうはずである。戦争犯罪と言っても、同日の談にあるはずがない。というよりジェノサイドは戦争犯罪なのか。

 あるとき小生は、ふとヒトラーはイエスの生まれ変わりではあるまいかという考えが頭をよぎって、慄然としたことがある。十字架にかけられたイエスが1900年の時を経て、ユダヤ人を殲滅しようとしたのだと。あのエホバの神なら大いにありそうだ。あの福音書家らは口を揃えて、イエスを十字架に架けたのはユダヤ人たちだと語る。福音書を読めば読むほど、冷静な周囲のだれが見ても無実の、〈イエスを十字架に架けろ、イエスを十字架に架けろ〉というユダヤ人たちの熱狂した叫びが大きく聞こえてきて、使徒たちの言いたいことは、じつにこの一点にあるのではないかとさえ思えてくる。

 まさかイエスがユダヤ人に復讐をするなんて、と人は言うかもしれない。しかし、たとえば個人としての人はみな幼年期のトラウマあるいは広く影響が、成人してからも癖や行動の傾向として現れ、イヤでも矯正しようもなく生涯続くように、一民族もその幼年期に受けた傷はいわば無意識の底を流れ、のちに否応なく発現してくるのではないか、と言いたいのである。

 いまだに〈ユダヤ人の物語〉が現実に厄介な問題を引き起こしていることを思うべし。また、海に囲まれた土地に生きてきたわれわれ日本人が現在、世界的に独特な性格を形成してきたことを思うべし。だからこそ、じつはわれわれ日本人はわれわれ独特の仕方で戦争をしたのだし、戦後も独特の生き方をしている。

 そういうことで、第二次世界大戦という語で、西洋と東洋の戦争を一括して、語ることはできないという視点もあるということ。そして今更ながら、何事においても名称はあることを語るのに便利ではあるが、同時にあることを隠すことにも便利である、と気付いた次第。



     


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『土佐日記』

なにとなく春になりぬときく日より
   心にかかる瀬戸の船旅…ってことで、

『土佐日記』と聞けば、土佐から京への、光のどけき春の日の旅路を綴った随想だと思っていたが、それは小生の思い違いだった。

 作者(紀貫之)は、数年間、土佐守としての任務を終え、承平4年(934年)12月21日、帰京すべく任地を去る。京へ着いたのは、翌年の2月16日。その約三カ月間、貫之ら一行の旅のほとんどは船旅であった。土佐の港から室戸岬を回って、今の徳島市、そして鳴門海峡を横切って、淡路島、和歌山、難波津から淀川を遡って京都へ。

 驚くべきことに、寒い時期の船旅であるにもかかわらず、寒いという言葉がない。もちろん航海は沿岸伝いで、所どころで寄港する。海が荒れて、船を出せない日も多々あって、予定通り進まない。

 また航海は、とくに土佐の港から淡路までは夜間が多い。一つの理由として明るい間は海賊がよく出るからという。しかし、今のように村には明かりがないだろうに、月明かりと星を頼りに航行したのだろう。鳴門海峡を渡る時も、海賊に見つからないように、夜間決行である。船中の皆は神仏に祈る。それにしても渦に巻き込まれることはなかったのだろうか。

 一行は一刻も早く京に帰りたい一心である。船中のつれづれに、男は酒を飲んだり漢詩を作ったり、女や子供は歌を詠んだりしている。

 たまくしげ箱のうらなみ立たぬ日は
     海を鏡とたれか見ざらむ


 昔も今も海が凪いでいるときは、海面が鏡のようだと誰もが言う。

 いよいよ難波に近づく、「住吉のわたりを漕ぎゆく。ある人のよめる歌、

 今見てぞ身をば知りぬる住江(すみのえ)の
     松より先にわれは経にけり


 久しぶりに見る住吉の松は千年の緑を湛えているが、私は、数年で歳をとってしまったことよ。

 洗練された都人である貫之から見て、船長は鄙びていて下品な人間であることが強調されているし、また船中には、土佐の地で出産したが、その子を亡くして、帰京の途についた女性(貫之の妻らしい)もいて、しばしば同乗者はその女性の悲しみに触れる。

 この悲嘆にくれる母は、住吉あたりでこう詠う、

 住江に船さし寄せよ忘れ草
     しるしありやと摘みてゆくべく


 住吉の岸辺に船を寄せよ、あの子のことを忘れる効きめがあるなら、それを摘んでいきたいから。

 そして作者は、この母が悲しさに堪えずして歌を詠むにつけ、こんな風にも語っている。「父もこれを聞いて、どんなに心を痛めているであろう。泣いたり、歌を詠ったりするのも、好きだからと言ってできるものではないだろう。唐土(もろこし)でもここ(わが国)でも、思うことに堪えられない時こそ、歌が生まれるのであろう…。」

 漢詩に堪能で『古今集』仮名序執筆者としての面目躍如


     


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バリ島に行く3

Iとの付き合いは、17歳くらいから26歳くらいまでの約10年間くらいだ。この多感ないわゆる青春時代に、小生はIを尊敬し、またIからもっとも影響を受けた。高校時代、一度として同じクラスではなかったように思う。どうして彼と知り合うようになったのか分からない。彼は早熟だった。おそらく彼から見ると小生は幼稚なおぼっちゃんに見えたであろう。家の遠い彼は下宿をしていた。われわれ数人の〈仲間〉は時々彼の下宿に行った。彼の部屋の本棚には「漱石全集」をはじめ多くの文学や哲学の本が並んでいた。

 彼は修学旅行には行かなかった。おそらく急病を装って、旅行の積立金を返してもらい、そのお金で本を買った。たぶん「折口信夫全集」だったと思う。キルケゴールという名を小生に教えてくれたのもそのころだ。そんなことで彼は非常な読書家であった。彼と一緒に他の仲間の家に行って、ビートルズやジャズのレコードをよく聴いた。深夜スーパーマーケットに忍び込んで盗んだガムを食べながら川の堤に座って、朝やけの空を眺めたこともあった。いつの間にか、われわれは彼をリーダーと呼んでいた。

小生がIを尊敬していたのは、彼が読書家で勉強がよくできたからではない。彼は繊細というのか、他人にたいして非常に細やかな心をもっていたからだ。一番強く印象に残っているのは、彼と小生と小生の友人Sと三人で、当時小生の一番の親友Oの家を訪ねた時のことだ。Oは、事情はよく解らなかったが、両親と別居していた。お祖母さんが彼の面倒をみていた。そのお祖母さんはとても歳をとっているように見えた。

そのお祖母さんが、Oの友達が訪ねて来てくれたということで、カレーライスを作ってくれた。それが、部屋や台所の状況とともに、見た眼にとても汚らしく、とても食べる気がしなかった。お腹もじっさいそんなに空いていなかったのかもしれない。ふだんからきれい好きのSはほとんど口をつけなかった。小生は、せっかくお祖母さんが出してくれたのだから食べなければと思いつつも、どうしても半分くらいしか咽を通らなかった。しかし、Iは頑張って全部食べた。小生には、それがOとお祖母さんの気持ちを察して無理して食べたことが、よく解ったのだ。小生は自分の無力を恥じた

そういえば、その後いつだったか29年間フィリピンで一人奮戦していた小野田少尉の帰国のことを話題にしたことがあった。小生が「うーん、29年間か・・・」とつぶやいたとき、Iは期間の長さは問題ではないと言った。小生は自分が解っていないことに気付かされた。

みなで、誰かの失態をからかったりしていると、Iは「だれでもそんなことをするではないか」と、われわれをたしなめることもあった。そういうとき、われわれはハッとして、彼を良心の権化のように感じるのだった。

Iは高校を卒業して上京した。彼の口癖は東大でなければ大学に行かない、であった。文化系の科目は抜群だった、だけど、彼は数学が非常に苦手であった。当然、東大は落ちた。慶応や早稲田なら、居眠り半分でも合格できたであろうに。しかし、両親をうまく誤魔化して、大学か予備校に通っているような振りをし、仕送りをせしめていたようだった。今から思うに、彼はハナから大学など行く気はなかったのだ。万一、東大に入っても、半年か一年かで退学していたのではなかろうか。彼が、まともに授業に出席し、試験をうけている姿は想像できない。ましてや、就職して長く仕事を続けるなんてことは考えられない。そのころすでに彼は周囲にたいして不安を抱かせる人物であった。以来、彼は二度と故郷の地に足を踏み入れることはなかった。

小生も上京した。中ぐらいの理系頭の小生は浪人して医大に入った。そのころIとはあまり会わなかったが、あるときIとAと小生はいっしょに、映画「冒険者たち」を見に行った。終わりのほうで、いい者である主人公らを悪い奴らが襲ってくる、いい者の一人は殺される、しかしもう一方が、うまく悪漢らを次々にやっつける、というシーンがあった。その時、Iは手を打ち、喜びの声を上げつづけた。彼のその無邪気さに小生は深く感銘をうけた。

しばらくの後、またわれわれはよく付き合うようになった。彼は、サングラスをし、かっこいい裾の広がったジーパンを穿いていた。青山のなんとかという店で買ったのだという。しかし、どうも気に入らない部分があるから直しに行く、一緒に行こうと言った。そのときの彼の恥ずかしそうな顔を思い出す。彼は何をして生きているのであろう、どこかでバイトでもしているのであろうか、小生はいぶかったが、なぜかそのようなことを訊ねたことはない。

ある時、音楽狂であった小生が、彼にモーツァルトのピアノ協奏曲no.17を聴かせて感想を求めた。彼は「これは丸と三角だ」と答えた。その時、小生は嬉しかった、その意味が判ったからである。当時彼がよく聴いていた音楽はロックであった。何回か二人で、小生のマンションで徹夜で音楽を聴きまくり、踊りまくった。彼は「ニーチェが音楽は個体解体の原理だというのは本当だ」と言った。ピンクフロイド、レッドツェッペリン、ディープパープル、バルトーク、ベートーヴェン、ストラヴィンスキー、長唄、能楽囃子、・・・そして夜が明けてくると、決まって『フィガロの結婚』の伯爵夫人のアリアで締めくくった。彼は言った「これは天上の音楽だ」と。ときにマリファナをもってきてくれた。

あるとき彼は小生に本をくれた、「les deux sources de la morale et de la religion」これ、彼は原文で全部読んだとは思わないが、後に邦訳本は小生の愛読書となった。今なお我が手元にあるこの原書は、唯一彼の手垢が付いたものだ。これも小生の棺桶に入れてもらうことにしよう。

26歳くらいの時には、われわれはもう別々の夢に捉えられていた。別れる時がきたのである。彼はきっと小生の凡庸な人生を見限ったのだろう。しかし、小生の彼への敬愛の念は決して消えることがなかった。そしていつかまた会えると信じていた。

数年前Aから、Iはバリ島で死んだと聞いたとき、驚きと同時に、やっぱりそうかと思った。と同時に、もう彼に二度と会えない無念さが心を圧した。若い日のIの写真を見て苦しくなるばかりだ。Iのような男は、この世ではとても生きにくかったに違いない。彼の繊細な魂は、たとえば学校や病院や介護施設などのホスピタリティの限界というか、この世のあらゆる制度の必至の欺瞞には耐えられなかったと思われる。近代の画家や詩人の中には人里離れた地に逃避した者がいたが、彼らには絵画や詩があった。Iには何があったのだろう。文学で若年期をスタートした彼は一編の詩も残さなかったのであろうか。彼の晩年に親しかった人に訊いてみたい。

         *

帰り、シンガポールを深夜一時過ぎ離陸した飛行機は、4時ごろまで、機内を暗くしてくれている。そのあいだ窓外に目を凝らすと、大小の星星がぎっしりとひしめいているのが見えた。そして思った、今この瞬間に新しく生まれている星もあろうし、消滅している星もあろう。消滅した星は散り散りになって、また新しい星の素材になる。星は新たな神話の素材になり、新たな人たちはその神話を生きる。その人たちの生もまたたく間に過ぎ去ってゆく。何に対して? 
すべては次々に思い出となって、そして自分だけが〈今ここ〉に居る。


     

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バリ島に行く2

このバリ島のカンプン・カフェは、当初Aと一緒に来たいと思っていた。しかし、Aは以前に、まだIが生きていたころ訪れたことがあるし(だからAはここでのIの写真をもっていたのだった)、それにたまたまAも重病の治療中で、かつまた最後の仕事が忙しい時期でもあったので、小生はふと妻を連れて行くことに決めた。なぜなら妻が行きたがっていたから。思い返せば、妻と海外旅行というのは、結婚して間もなく一度したきりだ。その後、海外と言うはおろか国内旅行もまともにしたことがない。死ぬまでに一度くらい、お礼と言うか何と言うか、まあそういう意味で、一緒に海外旅行をするチャンスでもある。一石二鳥とはこのことではないか。

それで、次の日は遺跡や美術館を廻りながら、南の海辺のリゾート地ヌサドゥアにある広大なホテルへ。そこで二泊。この間に非常に心に残った二つのもの。一つはアルマ美術館で見たヴァルター・シュピース(Walter Spies)の絵。強いて言えば、アンリ・ルソーの発見したところをシャガールの自由さをもって描く。このドイツ人は非常に多才な人であり、バリ芸術の立役者であったそうだ。そもそもバリ島の民芸が芸術として発展してきたのは20世紀に入ってからである。それにはシュピースはじめ外国人の尽力が大きい。

ヴァルター・シュピース
   wikipedia

それからもう一つは、断崖に立つウルワト寺院。バリ島は至る所に大小の寺院がある。ふつうの民家にも門前に魔よけのヒンズー神を立て、庭には先祖供養の石塔をいくつも立てているので、広い敷地の民家は小さな寺院と区別がつかない。ところでこのウルワト寺院は、べつに寺院がどうのってものではなくそれが立つ断崖絶壁がすごい。見下ろすと波寄せる海の水の色があまりに鮮明で美しい。その敷地の傍らには円形劇場があり、そこで海に沈む夕日を背景に50人くらいの男たちが叫びながら踊る(ケッチャクダンス)。そこへインドから伝わった物語を舞う洗練されたバリ舞踊が加わる。

ウルワト寺院5 ウルワト寺院4


ウルワト寺院ダンス3



ロケーションがよい。インド洋に沈む夕日、シルエットに浮かぶ寺院、たえず漂う香の薫り、半裸の男たちの呪術的な叫び、あざやかな色彩と繊細な動きの舞踊。これらが混然一体になって、観客を陶酔の境地に陥らせる。このまさに〈総合芸術〉も最近になって政府の後押しで生みだされたものであるという。かつて見たエーゲ海の断崖に立つポセイドン神殿も円形劇場も、今は廃墟である。しかし、このウルワト寺院はまさにいま芸術祭のメッカとして胎動している。インドネシア政府は、よきにつけあしきにつけ、バリ島を一大観光地として、バックアップしているそうだ。日本人観光客は減少しつつあるらしいが、代わって急増しているのは中国人だ。まあどこでも観光地はどんな人たちでもOK。気前のよい金持さんなら熱烈歓迎。

 大きなホテルの複雑に入り組んだプールで久々に泳いだ。生まれて初めて南半球の海に浮いた。しかし、バリ島に来て以来、頭から去らないのはIのことだ。「どうして君はこの様な地に渡ったのだ。どうして死んだのだ。」なんども頭の中でそう問うてみた。そして、彼のことをできるだけ詳細に思いだそうと努めた。


     

     

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バリ島に行く1

バリ島に行った。南国リゾートでリッチな休日をというのではなく、第一の目的は旧友の墓参りに行ったのだ。とはいっても、そこに彼の墓があるわけではない。死ぬまでにどうしても彼の晩年の縁の地を訪れたかったからだ。

 旧友Iの死は、三年ほど前に、共通の友人Aから聞いた。とてもショックだった。なぜならIは小生が高校時代に知り合って以来もっとも尊敬をし、影響をうけた友であったからだ。26歳くらいからもうずっと会っていないが、またかならず会えると思っていた。それがもう叶わぬこととなってしまったという思いは、日ごとに強くなって、せめて墓参りはしようと一年くらい前から考えていた。

日ごろ腰が重い小生も、もう今しかないという思いに駆り立てられて、パスポートを取り、旅行代理店に走った。目的の場所は、バリ島の中部の町ウブドという有名な、とは言っても小生は初めて知ったのだが、のはずれにあるカフェである。

 Aの語る所はこうであった。Iは、Iの連れ合いの出資によってなったそのカフェ(レストラン)で、現地の仲間であるマデ君とともに働いていた。しかし、Iは連れ合いと別れてしまい、(連れ合いは撤退し?)Iは現地に残った。ある日、Iは酒酔い運転でバイクを飛ばし、標識の柱ぶつかって亡くなった。この話をAから聞いたとき、小生はとっさに、Iは自殺したのだと思った。

バリ島の空港に着くと、予約通りルックJTBの現地のガイドが迎えに来てくれていた。そこからウブドのホテルに直行し、明日の行動の予約をした。明くる日、まずタマン・アユン寺院を訪れてから、Iの縁のカフェに行く。そこは有名な観光地になっているライステラス(棚田)のすぐ傍らにあった。

名はカンプン・カフェ。ここがIの終の棲家であったのか・・・。見晴らしはすこぶるよい。棚田の間に散在するヤシの木、向こう側はジャングル。カフェや小さなプール付きのコテッジ。多くの店が増える10年くらい前までは、このカフェは観光客が必ず寄る店であったらしい。ガイドブックにも載っているし、現地の人はだれでも知っている。

カンプンカフェ1



われわれが着いたときには、残念ながら店長のマデさんは外出中でいなかったが、スタッフの二人はIを知っていた。あらかじめAにもらったIの現地での写真をもっていったのがよかった。スタッフはこの写真を見て懐かしそうに喜んでくれた。JTBのガイドにスタッフからの話を通訳してもらったが、彼の日本語は不十分でよく判らなかった。今にして思うと、スタッフから英語で直接聞いた方がよかったような気がする。なんでもIはここに住み着く決心をしたらしく、マデさんの養子になったそうだ。Iよりマデさんのほうがだいぶん年下なのだが…。Iは大の飲酒家であり肝臓を患っていた。このカフェには大きな犬(レトリバー?)がいたが、スタッフによるとIにずいぶん懐いていたそうだ。小生は犬にIの写っている写真を見せたが、判ってくれたかどうか…。

カンプンカフェ2


ここでわれわれはランチを取り、時間が来たので帰りの車に乗ろうとしたその時、そこへちょうどマデさんが帰って来たことをスタッフが告げてくれた。小生はマデさんに自己紹介をし、写真を見せた。マデさんは「懐かしいなー」と日本語で言った。Iといっしょに写っている女の子は自分の娘で今17歳になっているとも。とにかく店の前で一緒に写真を撮った。そのとき犬が小生の脚を前足で何度も強くなでてくれた。その感触が忘れられない。お互いに急いでいたので、ゆっくり話をすることができなかったのが心残りだ。手紙を書いて、もっとIの事をくわしく訊こうと思う。

カンプンカフェ3


その日は、その後で美術館とウブド王宮での民族舞踊を鑑賞した。いつもながら、あれもこれもと欲張ったあげく、結局すべてが中途半端になってしまう。死ぬまで悪癖は直らないものだ。



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神宮の祭

先日、伊勢神宮と春日大社とを取り上げた番組を見た。ここでは奈良・平安の昔より延々と続くお祭りが、じつに多くのお祭りが、密かに今なお全く同じ形式で続けられていることに改めて驚いた。

 一例をあげれば、日ごと神に供える新撰。米は専用の田んぼで古来の手法での田植えや稲穂取りを神官らが伝統の衣装を身にまとってする。塩も同様、専用の塩田で日を重ねて作る。海山の幸もきっと決まった所からのものであろう。

 また、神前に供える工芸品も昔ながらの手法・手続きで作られる。例えば織物は、その図面すら昔のものを、同じ素材の筆を作り、同じ顔料で、手で書き写すことから始める。毎回そうなのだ。コピー機がある現代の目で見るととても非効率的だ。手は機械ほど正確でもないから、ちょっとしたミスがあってもやり直さねばならない。

 しかし、あえて昔ながらの形式を踏むことによって、神への供え物を創るという気持ち、緊張感・努力感・喜びを体験できるのだろう。だからその形式は古くて新しいものだ。そう思うと、たとえば伊勢の式年遷宮というのは創造の源泉に立ち返ることなんだ、最も古くてもっとも新しい感情の源泉なのだと思う。

 現代では、われわれの住まいから日用品まで、すべてはいかに高級品でも大量生産品であって、われわれ日本人は、これらはみな偽物ではないか、どこかに〈本物〉が在るはずである、どこかに文化の中心が、オリジナルが、われわれの身の回りの品々が出てくる遠い源泉があるに違いないと信じているのではないか。

 〈手作り〉という言葉にわれわれが感じているニュアンスには、ちょっとそういったものがあるのではないかな。めんどうであるし、不確かでもあるが、真剣に時間をかけて作ったものには、作った者の心が込められていると感じている。神社の儀式には多くそれがそのまま残っている。


            


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佐野の渡り



藤原定家39歳、後鳥羽院への詠進百首のうちの一首

 駒とめて袖うちはらふ陰もなし
 佐野のわたりの雪の夕ぐれ  


本歌は万葉巻三にある長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)の歌、

 苦しくも降りくる雨か三輪が崎
  佐野のわたりに家もあらなくに


 本居宣長は定家の歌を評して、「とてもよい。万葉の歌の、〈苦しくも降りくる〉と〈家もあらなくに〉という心を〈袖うちはらふ陰もなし〉と一言ではっきりと表現している。そのうえ、夕暮れという語でもって宿家がないことをも表している。このごろ、もっぱら万葉振り至上主義者がこの歌を悪く言うが、それは偏見というものだ。〈袖うちはあらふ陰もなし〉は苦しい心も家のない心も備わってとてもよく哀れがでているではないか」と書いている。

 まったくその通りで、また万葉の雨を雪と変えたのは効いていて、両者の歌を比べて見ると、その姿の違いは明瞭で、鎌倉初期の定家の歌は斬新で、スマートな芸術作品という感じがする。

 ところで、奥麿の歌った三輪が崎の佐野の渡りとは、今の新宮市三輪崎佐野の川の渡し場という。しかし定家の歌の佐野のわたりはどこのことだろうか。こう問うことは野暮ったいことのような気もする。本歌を離れた言葉は現実から遊離し、あるイメージだけを喚起するいわば表音文字となる。

 安東次男氏の本で知ったのだが、源氏物語の「東屋」で、薫が浮舟の仮の宿を訪ねるところ、

 「さののわたりに、家もあらなくに、など口ずさびて、里びたる簀子の端つかたに居給へり。・・・」

 当時、奥麿の歌は自然に口に出るほど有名であったのかもしれないけれど、すべての歌が頭に入っていた紫式部のことだから、この場面に相応しい歌として薫るに口ずさませたような気がする。

 そして、『新古今和歌集』においては、定家の歌の続きに、良経の「待つ人のふもとの道は絶えぬらん軒端の杉に雪重るなり」があって、両者を並べて見れば、


駒とめて袖うちはらふ陰もなし
     さののわたりの雪の夕ぐれ

待つ人のふもとの道はたえぬらむ
軒端の杉に雪おもるなり

 安東氏によれば、これは「王朝の恋から無常までの物語を、続きの歌で言い現した、・・・前歌は男で後歌は女の姿である。・・・これは宇治十帖の恋の結着をおもかげとした仕立てだということは容易にわかる」と言う。そして「浮舟」の巻で、雪深い山道を踏み分けて宇治を訪うた匂宮を連想している。たしかに、こう言われると定家の歌がまた新たな、まるで美しい屏風の絵を見ているような、感覚を呼び起こす。

 『新古今』が『源氏』を意識して編集されたということがあるのだろうか。まあ、それにしても言葉はイメージを蔵して人々をめぐり、日常言語の中にさえ伝統として生きる。いったいリアリティとは言葉の側にあるのか、事実の側にあるのか。


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初釜に出る

 昨日、初めて初釜に参加させてもらった。先月、家人に近所の茶道の先生宅に連れていかれて、そこで一服お茶をいただいた。その御縁で、初釜に招待していただいたのであった。じつは近年お茶を習う生徒さんが激減してきたらしく、それでまったく素人の小生も今回の初釜に駆り出されたというわけである

 それにしても、これはよい経験であった。まず場所がよかった。小さいながらもこの町では一番と言われている老舗の料亭兼茶会所だ。玄関を入る。大きな李朝の俵壺に南天が活けてある。昇る初日に瑞雲が棚引く。


        玄関

奥へ歩みを進めると実に古色を帯びた丸木や椅子がそれとなく置いてある。
 
椅子1 椅子2



 四畳半ほどの控室で待つこと半時。床の間の軸に「石をなげて羊をうつ、竹を削って千金をあたふ」?と読める賛、絵は茶杓。古い銘木を思わせる床柱はむろん、小生はとくに床框(とこがまち=前の縁)に目を奪われた。これは敷居(障子などの下の横木)を、そのままあてがったものである。この屋敷はそのむかし移築して造ったと聞く。きっとその時、この小部屋の床框にそのとき余った敷居の木を利用したものであろう、今ならそのようなものは廃材として捨てて顧みないであろう。この小部屋をしつらえた人の合理性と美的創造性は茶道に通じるものではあるまいか。

     小部屋床




 しばらくして、別室に呼ばれた。そこでまず煎茶を立てていただいた。床は寒牡丹が一輪、軸は「一花開天下春」、そして左上隅から柳の枝垂れ長く流し、その先は大胆にも床框をはみ出している。右隅に小さな木製の飾り物が置いてある。

     煎茶床の間


 一煎いただいた後、先生は全周に墨で文字が書かれた桐箱を出し、皆の前で、「今日はこれを○○さんに読んでもらおうともって来ました。」と言う。○○さんとは小生のことだ。これには困惑した。ほとんど解らない。最後の鉄齋筆というのだけは解る。小生は、とりあえず目を通し、それを皆に回した。

 どうしよう、先生がああ仰るのに何も言わないのは失礼だし、場を白けさせてしまう。しばらく先生と正客との会話。それが途絶えたとき、小生は意を決して「では、判るところだけ読んでみます」と言って、箱を再び手に取り、額と背後に冷や汗を感じつつ、「なるほど、これはなんとなく鉄齋の気宇壮大な心が出ていると感じます」と大きく出た。そしてところによっては漢字をそのままに、ところによっては意味を想像して、できるだけ声が小さくならないように注意して、適当に読んだ。もちろん、まったくお話にならないので。最後に「そんな感じかな。よく解りません。」と付け加えた。もちろん耳をそばだてていた客たちは〈皆目わからん〉という顔つきである。

          桐箱


 しかし、小生はそれでいいと思った。どうせみな分からないに決まっているのだ。ただ、恐らく先生だけは小生の出鱈目に気付いている、が小生は先生の茶人としての粋を信じたのである。茶の心は〈おもてなし〉に尽きるはずだ。それなら、先生は決して場を白けさせないように、またすべての客たちにイヤな思いをさせないように、上手にその場をフォローして下さると信じた。じっさい先生は上手く取りなしてくれた、と思った。

 それから、客たちは、水を打った路地(中庭)に導かれ、型の如く順々に蹲(手水鉢)のところで手と口を清め、別室へ入る。茶道に暗い小生は、できるだけ前の人の真似をして進むのみであったが、しばしば無作法をしたようだ。分かっても分からなくても、軸や道具を畳に手をついて左に右に鑑賞し、お茶碗が回ってくると一言、感じたことを口にする。
 
路地2  路地1
    

 ここでお酒と食事。濁り酒は美味しかったが、小生はあまり飲めないので残念であった。本来この場でこそいろいろとおしゃべりをするべきなのだと感じた。右となりは先生であったので、このさいと思っていろいろと質問したが、先生の声が小さくて、しかも小生の右耳の聴覚は悪いので、半分くらいしか聞こえず、適当に相槌を打たねばならなかったのが辛かった。先生が仰る、今ではお茶と言えば女性のモノみたいだが、もともと茶道は男性のモノだった。最近は大学の茶道部に入る人は居るのだけど、ほとんどは就職活動で辞めていく、卒業後女性もみな仕事に忙しくなるから茶道などやっておれない、時代が変わってきました。

 後で家人に聞いた話だが、昔は生徒さんが沢山いて賑やかだったが、今は招待しないと初釜が開けないくらになった。先生も昔ほど迫力がなくなり、少し記憶力も衰えられ、間違いもときにされるようだ。

 こういった話を聞くにつけ、今後茶道の世界はどうなっていくのだろうか、と考えざるをえない。自宅に茶室を設け、四季折々に相応しい大量の〈お道具〉をお持ちの先生方もそのうち居なくなる、その後は誰かこれらを受け継いでいく人は居るのだろうか。高価なものは骨董屋の餌食になり、ついには諸外国にばら撒かれてゆくのだろうか。学校を出てすぐ働く女性たちは、何のために仕事をするのか、むろん〈生きてゆく〉ため、そして仕事を通じて〈自分を向上させる〉ためであろう。がしかし、そのとき日本人が長らく育んできた〈おもてなしの心〉の故郷の喪失感を味わうのではないか…。


 食事の後、いったんその部屋を離れて、トイレに行ったり、庭を眺めたりする。そして再度、路地を通って、同じ部屋に入る。新しいお道具が用意され、軸は変わっている。そして、濃茶と薄茶。お道具拝見。最後に、ラウンジにてデザートとコーヒー。一部の人たちが先生のお道具をたたんでまとめている間、屋敷を一人あちこち勝手に眺めまわした。


            

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夢の浮橋

藤原定家の名作のひとつ

  春の夜の夢のうきはしとだえして
     峯にわかるるよこ雲の空


 新古今和歌集に散りばめられた美しい宝石の一つであり、古来ああだこうだといろいろな解釈をもっていじくりまわされている。誰でも好きな物について、いかなる評価や説明も虚しいものだとは知りつつ、それでもなお語りたくなるものだ。素人の小生でもそうだ。

 だれでも春の夜と聞けば、心地の好い空気を感じる。そこでの夢は甘いあこがれ、ゆかしい、心が惹かれるような夢、そしてそれがとだえるとは、その余韻がだんだん薄れていく、さらに追っていきたいような気持が微かにのこっていて、しかしそれを敢えて意識的に追っていこうとすると逆に遠のいてしまう、その微妙な気持ちを保ちつつ目をあけると、空にはたなびく雲がゆっくり動いている。山の端からまさにいま離れようとしている。

 むしろ、春の夜という薄明の意識、すこし目覚めてふと目に映った雲の動きが、かの甘くゆかしい夢を誘い出したのではないか。いずれにしろ、浮き橋はあの世とこの世とつなぐもの、そしてまた峯と空をつなぐものであり、雲は絶えず動いていくもの、つまり時間の象徴ではあるまいか。

 春の夜とは春の世、すなわちこの世であり、夢の浮橋は物語の終わりを、薫と浮舟の運命を、俗世と来世を、暗示する。そして、この世であれあの世であれ、すべての出来事は、空に描かれた劇にすぎない。空(そら)とは空(くう)である。

 この歌は連作であって、その直前の歌をあげておこう、これもなかなか好きだ。

    大空は梅のにほひにかすみつつ
        くもりもはてぬ春の夜の月



          

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花も紅葉も

 藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」。この歌は三夕の歌の一つとして有名で、たいていの人が知っている。昔は浪花節みたいでふざけた歌でどこがいいのと思っていたのだが、いつだったかある日、これはすごい面白い歌ではないかという考えが頭をよぎった。

 何と言うか、この歌は『新古今和歌集』の新しさを評していて、またそれゆえにその先をいっている。いわばメタ認識の文学と感じさせる。あるいは形而上学的な、つまり、詩人は、パズルでもするように、言葉の論理的な組み合わせによって、新しい次元の世界を現出させることができるということの発見。ふと思い出したが、〈言葉の錬金術〉というのがぴったりくる。

 いや、あるいはまたSF的と言えるかもしれない。考えて見れば、われわれは古代より浦島太郎やかぐや姫の物語を好んで話していた。「猿の惑星」ではないが、いつもの海浜の景色を見たら、あれほどあでやかな景色がぱっと消え、信じられない灰色の世界になっていた。むしろそう受け取った歌人たちも居たのでは、とも想像できて面白い。

 さて一般的には、一見あばら屋しかない海浜の茫漠たる景色について詠ってる、ここに〈花や紅葉〉という言葉を入れることによって、一瞬われわれの脳裏に鮮烈な記憶を呼び出し、それが〈ない〉ということによって眼前の景色のいっそううらぶれた印象を強めている、と評される。

 そしてまたこの歌は、ときに指摘されるが、紫式部の『明石』にいわゆる「なかなか春秋の花、紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに…」の、海鳴りばかりの海浜のあはれを歌にしたとも言われる。

 しかしそれにしても、定家の歌はそのような独自のいわば抒情性を欠いている。それは一つには「見わたせば」という唐突な始まりにあり、そしてまた、〈花も紅葉も〉と〈苫屋〉との無礼な対比、無機的な直結にある。そして縁語や枕詞を援用せず「なかりけり」できっぱり断定する。向こう意気の強い25歳の定家のふとした勇み足か、しかしそれはその後の天才の運命を決したよう思われる。そこには西行の〈あはれ〉はまったくない。

 むろん伝統的な和歌としては失格かもしれないが、これを定家が狙ったと考えると、やはり非常に斬新な歌に見えてくる。むしろ歌という形式ならでは可能な新次元の発見と言えないか。西洋絵画史におけるセザンヌのように、いわばパーソナルな視点を離れたところの純粋な知覚世界の存在を、言語でもって垣間見せたとは言えまいか。

            *

 定家のこの歌は茶人たちにもてはやされたというところが、小生には面白く感じられる。『南方録』に曰く、

 「紹鷗のわび茶の心は、新古今集中、定家朝臣の歌に、

  見わたせば花も紅葉もなかりけり
     浦のとまやの秋の夕ぐれ

 この歌の心にてこそあれ、と申されしとなり。花紅葉はすなはち書院台子の結構にたとへたり。その花紅葉をつくづくとながめ来たりて見れば、無一物の境界浦のとまやなり。花紅葉を知らぬ人の、初よりとまやにはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立たれ、これ茶の本心なりといはれしなり。…また宗易いま一首見出したりとて、常に二首を書きつけ信ぜられしなり、同集家隆の歌に

  花をのみ侍らん人に山ざとの
     雪間の草の春を見せばや

 これまた相加へて得心すべし、云々。」 ・・・

『千利休事典』によるとこのことを、「〈侘は清浄無垢の仏世界〉をあらわすと説いた利休は、紹鷗が定家の歌で侘びを表現したのに対し、なお加えて家隆の一首を取り上げて、自然界の伊吹の中に侘びをとらえることによって、遊芸からは程遠い精神的な働きを重視する草庵茶道の理論化を完成させたのであった。」と書いている。

 それにしても、利休はどうしてこの二首を並べて信仰したのであろう。一見家隆の一首だけでも充分であるように思われるが。紹鷗への敬意からであろうか。それとも、定家の歌という初動が必要だからであろうか。小生にはどうもそのように思われる。
 
 〈雪間の草〉に自足する心は、俗に在りながら俗ではない。この心を会得するには、いったん定家の錬金術によって、この分かり切った世を離れた真の自然界を垣間見る経験がなくてはならない、そして一たびその経験をした者は再びのこの世に還ってきたとき、いわば新しいヴィジョンを得る。彼は人の世を違った風に見、生きる。そんなふうに空想する。




     

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出雲旅行

生まれて初めて年末年始の家族旅行をした。足かけ三日の出雲旅行。足立美術館、宍道湖の夕日、出雲大社、日御碕神社、玉造温泉、松江城と堀川クルーズを楽しんだ。

 宍道湖の夕日

   宍道湖夕日




    寒風に逆らって見る夕日影
        しだいしだいに大きくなりぬ




     立ち騒ぐ湖面の波の散りぢりに
          光り輝く一筋の道



 出雲大社では、冷たい雨の降る中、オオクニヌシ神の数奇な運命を思った。この神が数々の受難を通してこの国の神になったこと、出雲の話が『古事記』神代の多くを占めること、そして、この地域はその昔、一大交易都市であって、当時は日本海側が表玄関であったことを考えたり、家族一緒に写真を撮ったり、拝殿前でここでは礼と拍手はいくつどうするのか話合ったり人に訊いたりして、落ち着かず、何をお祈りしたのか憶えていない。

 松江城堀川クルーズ(雪吹き付ける朝)

      堀川クルーズ
  


    雪の日に舟乗る客の居ることの
        船主の不審晴れて出発



      松江城
  

    冬の日に似合ふすがたの松江城
        古武士のごとく凛としてをり



     


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休職?

 12月25日が仕事の最後の日であった。事実上の退職なのだが、なぜか休職扱いとなった。また来年ひょっとすると仕事に復帰できる可能性が無きにしも非ずという、ボスの心遣いからであろうか。それにしてもいただいた立派な花束は、どう考えても退職を記念するものだ。

 こちらとしては来月の前半ならまだ手伝えるのだが、たしかにそれだけで辞めるのなら、今年いっぱいで辞めた方が事務的な処理は簡単であろうと思われる。

 25日、小生も気持ちとしてはもうここで仕事をすることはあるまいと思い、自分用の小さな引き出しの中身を全部捨て、ほかの私物も整理し、最後にネームプレートから名前を書いた紙を出し、シュレッダーにかけた時は、さすがに胸に迫るものがあった。

 ここでの22年の今に続く実感がふっと切られ、一挙にもう手の届くことがない〈思い出〉になってしまったという感じ。自分は透明人間になって、しかもその瞬間まだ自分がここに、いつものメンバーが共有している空間に、まだ居るという違和感。きっと自分の葬式において、棺桶に入った自分に意識があるとしたら、そんな感じだろう。

 しかし、その瞬間が過ぎたら、仲間とよしなしごとを言い笑いあえば、いつもの日常が蘇り、ふだんと同じように、「お先に」と言って車に向かう。しかし、車の中では「これが最後なんだな」と自問自答する。

 しばらく入院して休んでいたせいか、家に居ても、もうこれが普通のように感じられる。仕事からの緊張からは解放されたが、他の義務がホッとさせてくれない。これが自分に与えられた宿命だと観念する。


     

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『桜の園』

背景は19世紀末のロシア。大地主が代々住んでいた美しい土地(桜の園)を、時代の流れとともに手離さなければならなくなる話だが、舞台上では登場人物たちは自分が育った時代を夢の糧として生きており、彼らは皆その性格に応じててんでバラバラに勝手なことをしゃべっている。その不統一が、終わって見れば、じつは全体としてそのかけがえのない一時代を浮き出させている。

 ある地主は自分の土地に鉄道が走ることによって大儲けをする夢を見、振興の土地ブローカーはリゾート開発でひと儲けしようとする。桜の園を手離さなくてはならない女地主は裕福な育ちでおっとりとした人で、他人への信頼と愛情に満ちているばかりで、経済観念をまるで欠いている。

 最も歳をとった耳の遠い老人は言う、昔はみな面白く生きていた、旦那と百姓は心から結びついていた、農奴解放令がでて自由民になった連中ときたら勝手放題で、訳が分からん…と言う。みなこの老人のことをうっとおしく思っているが、多少は気にかけてはいる。

万年大学生は、人類の進歩を信じており、しかしロシアの現状は底辺の労働者らの極貧および道徳的腐敗、そしてインテリを口ばかりで何もしない偽善者、ロシアのすべてはアジア的野蛮と停滞、と非難する。しかしこの男もまた、頭をイデオロギーでいっぱいにして、一時代前までの地主はみな農奴性の賛美者で農奴をしぼれるだけしぼっていた、と憤慨する。

しかし、だれもそんな話は聞いてやしない。ただ彼を愛する最も若い登場人物は、かれの話にうっとりする。そしてこの愛する乙女は、彼とともに新時代を夢見る。彼は彼で、自分たちは恋愛を超越していると言っている。

桜の園を手離さなくてはならなくなった女地主に対して、この万年大学生は、すべては時代の流れで、きっぱり現実に目覚めなければならないと諭す。それに対して彼女は、あなたは人の心も本当の人生も見えていないから、はっきり物事を割り切ったように語れるのだ、そんな人には、彼女の昔の男に対してなお愛する気持ちや、この桜の園に結びついた子供時代の懐かしい気持ちが分からない、人の心を解さない変人だと非難する。

彼女の兄も一言居士だが、お説教を述べようとするたびに周囲から押しとどめられる。養女も執事も小間使、従僕たちも、みな対話してるのか独白しているのか曖昧模糊として、ときに脈絡なく話が飛ぶ。ひとはみんな自分の観念の中に閉じこもっている。いったい客観的な世界の流れなどというものはあるのか。

みなそれぞれ欠点あるいはこだわりをもっているが、悪人は一人としていない。それぞれの時代と性格を背負って夢を持ち、みな時代に流されて生きる。そして最後にこの桜の園の館からみんな居なくなる、ただ一人あの老人を残して。

病弱の老人は呟く、「わしのことを忘れていったな。・・・なあに、いいさ、・・・まあ、こうして坐っていよう・・・ほんとにお若えお人というものは! 一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。どれ一つ横になるか・・・。」

      

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『三人姉妹』

諦念という言葉をふと口にしたら、チェホフが浮かんできて、何十年かぶりで読みたくなった彼の戯曲。

 遅かれ早かれ幸福は未来にやってくるとみなが思っている。そういう登場人物の一人は言う「いったいロシア人は、高尚な物の考え方をすこぶるもって得意とする人種のくせに、実生活となると、どうしてこう低級をもって任ずるんでしょうかね?」。この疑問は、19世紀後半のロシアのインテリたちの誰もが大きな驚きをもって発した疑問だ。やがてロシア人の心と現実の行動との極端な乖離は絶望的な空想に走るだろう。

 また別のインテリは語る、「モスクワのレストランの大きなホールに座ってみろ。こっちを知った人は誰もいないし、こっちでも誰ひとり知らない。それでいて自分がよそ者のような気がしないんだ。ところがここだと、向こうもこっちもみんな知り合いの仲なのに、そのくせ僕は他人なんだ…一人ぼっちのよそ者なんだ。」彼はすでに20世紀のスマートな都市型人間ではある。彼らは個人主義の仮面をかぶって、やがてマスメディアによって動かされることになろう。

 なんやかんや言っても、やはり人生は謎だらけで、人生は辛いと言う人でも、やはり幸福であり、結局は肯定しているはずであり、千年経っても人々は同じように生きているだろう、と唯一語る登場人物がいる。この人物は終わりの方で決闘で殺される。

 この男は、三人姉妹の末の妹を愛している。しかし、彼女は愛というものを知らない。彼は彼女から愛を引き出そうとして言う、「じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらず下らん事だと高をくくって笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時にすでにおそい。」人生で肝心なものはわれわれの目に隠されている。そしてとても皮肉に展開するものだ。

 この田舎町に集まった人物たちはまた去ってゆく。モスクワでの生活という夢が消えた末妹を抱いて長女は語る、「(出発する兵隊たちの)楽隊はあんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると、もう少ししたら、何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。…それがわかったら。それがわかったらね!」虚しい夢だ。


    


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『悲しき熱帯』

 これも死ぬまでに一度読んでみたいと思っていた本のひとつである。この本を読んで先ず感じたのは、二十世紀の洗練されたフランス人の人類学者の芳しい香である。それはブルボン朝の豪奢とルソーの怨恨と革命とボードレールをベースにした香りである。

 したがってこの本はこう始まる。
「私は旅と探検家がきらいだ。それなのに、いま私はこうして、私の海外調査のことを語ろうとしている。だが、そう心をきめるまでに、どれだけの時間がかかったことか! 私が最後にブラジルを去ってから15年が過ぎたが、そのあいだじゅう。私はいくどもこの本を書いてみようと思いたった。そのたびに。一種の羞恥と嫌悪が私をおしとどめた。いったい、なんだというのだ? あのたくさんのあじけない些事や、とるにたりない出来事を、こまごまとものがたる必要があるのだろうか。」

しかるに、われわれ一般読者が期待しているのは、些事や出来事からなる物語であって、小難しい人類学的理論ではない。そして著者は、そのことを十分心得ていて、こまごまとした些事を余すところなく語っているが、彼の育ちのよさを思わせる感覚の鋭敏が読者を退屈から救ってくれる。

例えばこんなくだりがある。
「ブラジルは、私の想像力のなかで、奇妙な構築物をうしろにかくしている曲がりくねったヤシの束のようなものとして描かれていた。そしてその全体は、香炉の匂いのなかにひたっているのであるが、この嗅覚の要素は、「ブラジル」と「グレジェ(ぱちぱち燃える)」という二つのことばから無意識に引き出された音の類似によって、ひそかにすべりこんだもののように思われる。この音の類似は、その後ブラジルについて多くの経験をしたにもかかわらず。今日でもなおブラジルを考えるときには、まずこげたにおいを私が思い浮かべる理由を説明してくれる。」

あるいは、
「大アンティル諸島というかなり特殊な背景においてではあったが、アメリカの町に共通してみられるあの洋装を、私がまず認めたのも、プエルト・リコにおいてであった。すなわち、どこへ行っても、建物が軽そうで、効果だの、通行人の関心をひくことばかりねらっている点で、いつまでも催されている万国博覧会かなにかに似ていた。」

あるいは、
「16世紀の人間の意識には、知識以上に本質的なある要素が、科学的な考察に不可欠の資質が欠けていた。この時代の人々は、世界のスタイルということに敏感ではなかった。こんにちでも、たとえば美術において、イタリア絵画の、あるいは黒人彫刻の、なにがしかの外面的な特徴はわかっても。意味を持ったその全体の調和のみえない粗野な人は、ほんもののボティチェリの絵と贋作とを、また中央アフリカのファン族の小像と市場で売られている安物とを、見分けることができないであろう。」

あるいは、
「この巨大さの印象は、アメリカに特有のものである。・・・これらの街路は街路であり、山は山であり、川は川でしかない。では、あの故郷喪失の感情はどこから来るのだろうか。それはただ、人間の大きさと物の大きさとの間の関係が、もはや共通の尺度がなくなるほどにひきのばされているということに由来している。」

まあ、いくらでも引用できるが、止めておく。

さて、著者はサンパウロからアマゾンの奥地へと進み、幾つかの未開の部族に接する。そこで幾つかの発見がある。そのなかで小生がとても面白く感じたところを紹介しよう。

カドゥヴェオ族というのがいる。著者が接したときにはすでに彼らは外来者と取引をすることに慣れていたのであるが。しかしだからといって彼らの伝統的な制度が無くなっているわけではない。この部族においては男が彫刻をし、女が絵を描く。そしてこの絵のデザインの際立った特徴は紋章学に通じる著者の心を捉えた。

とくに、女性の顔のマニアックな装飾、「繊細な幾何学モティーフとたがいちがいになった非対称形のアラビア模様の網」は、何のために、どこからその着想を得たのであろう。カドゥヴォエ族の女たちが迷うことなく描いていく、縦横の線、斜めの線、菱形、蔓草状、渦巻き、波状、それらの結びつきの多くのパターン。いろいろ過去の報告などを参考にして、著者はそれが他でもない独自の理由に基づくものだということに気が付いた。

簡単に言えば、この〈芸術〉には、社会学的機能がある。つまり個人に人間としての尊厳を与える。それからカーストつまり身分の序列を表している。この世襲の身分を保証するにはどうするか。異なる階級の者が結婚できないならば、半族間の結婚を義務化する。階級の非対称性と半族の対称性という矛盾の解決として女たちは夢を見はじめた。これがデザインなる。

この〈芸術〉は、「社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現しうるであろう制度を象徴的に表す方法を、飽くことのない情熱で探し求める一つの社会の幻想として説明すべきであろう。彼女たちは化粧で夢を囲むのだ」。

それから、この本の書名『悲しき熱帯』の理由となったナンビクワラ族について少し触れておかねばならない。著者はこの部族の生活につぶさに触れることによって、社会学上の新しい発見をなしたかもしれない。しかし、小生にとって面白いのは、著者がこの部族のあり方に非常に感動している点であり、その感動は小生にも伝わって、人間とは何かという疑問符をつきつけられるのである。

ナンビクワラ族の住んでいる地域は、とげとげの灌木が生えているだけの乾燥した貧しい土地で、一年の半分は雨が多い季節で、彼らは木の枝やヤシの葉で粗末な小屋を立てて定住する。そしてイモ、豆、トウモロコシなどを栽培する。これは男の仕事だ。この季の初めの神聖な儀式は、男たちが竹で作った笛を吹くのであるが、それは女がいないところでするという。
後の半分の乾いた季節になると、彼らはその小屋を放棄して、遊動の生活に入る。10人とか20人とかくらいの集団に分かれて、それぞれの全財産(ひょうたんの器、石、竹、紐、樹脂、貝殻、動物の歯、爪、骨など)を割いた竹でできた籠に入れて移動する。その間は彼らは採集生活にはいる。草木の実、根、ウジ虫、クモ、イナゴ、ネズミ類、蛇、トカゲ、蜂蜜など、食べられるものなら何でも採る。これは女の仕事だ。時には、強い日差しや雨を避けるためにヤシの葉を立てる。男たちは弓矢をもっているが、いい獲物はめったにない。採集物がとても少ない土地であるゆえに、少人数のグループに分かれて遊動した方が経済効率がよいという。

彼らは衣類はなく裸である。睡眠は裸のまま地面に寝る。彼らは砂の中で転げ回ることを好み、体は砂でまぶされている。乾季の夜は寒く、焚火の近くで、あるいは体を寄せあって寝る。昼間は水浴び、料理(イモや実を煮る)木の実や貝殻で飾りをつくる。ぶらついたり、頭の虱を獲りあったり、ワイ談や冗談を言い合ってよく笑い、いつも陽気だ。犬、鳥、猿を愛玩用として飼っている。夜が近づくと当番が薪拾い。そして家族ごとの焚火。おしゃべり、じゃれあい、夫婦は抱き合う。子供は一人か二人。それ以上はこの環境と移動生活には邪魔になる。

愛し合う二人は、人前でも抱き合って戯れる。しかし、この部族の場合、それが必ずしも性交というわけではない。それはむしろ遊戯的、感情的なたのしみであるらしい。彼らは全裸で暮らしているが、だからといって羞恥を知らないのではない。ただその範囲がわれわれとは異なるのだ。

それぞれの群れには首長がいる。首長は群れの方針(遊動の時期や方向の決定、周囲の群れとの関係など)について決定権と責任を負わねばならない。その代り、彼は複数の妻をもつという特権が与えられる。多妻とはいえど、家庭生活の単位としての本妻は一人であって、この本妻だけが、日常のこまごまとしたことをする。他の女たちは、いわば情婦、遊び相手なのだが、狩や偵察のときは首長について行く。

首長と成員のあいだには、それゆえ同意と交換とが成りたっているはずだ。首長は群れの成員にたいして気前がよくなければならない。仕事も多い、うまくやらねばならない、責任もある。だから、かの特権があるとはいえ、すすんで首長になりたがるものは少ない。しかし現実には必ず首長がいる。そのことから著者は発見する、元々こういった傾向の(公の責任という負担そのものを報酬と感じる)者が必ずいる、どんな〈社会〉も、そういった個人の差異を利用すると。

ともあれ、結論として、次の著者の言葉を引用しておこう。
「初めて荒野でインディアン(原住民)とともに野営する外来者は、これほど完全にすべてを奪われた人間の光景を前にして、苦悩とあわれみにとらえられるのを感じる。この人間たちは、なにか恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上におしつぶされたようである。消えやすい火のそばで、裸でふるえているのだ。外来者は、手探りで、茂みの中を歩き回る。焚火の光の暑い反映でそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。
しかし、このみじめさも、ささやきや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎ去った結合の思い出にひたるかのように抱きしめあう。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らのすべてのうちに、無限の優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、動物のそれのような満足を、人は感じとるのである。そして、これらさまざまな感情を集めた人間の優しさの、最も感動的で、最も真実な表現であるなにかを、人は感じとるのである。」

   長くなってすいません


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冬の到来

 早朝に窓を開ければ
 久々に冬の匂い
 両の鼻孔に入り込む
 この芳しい
 むかし懐かし
 幼時より
 慣れ親しんだ
 お手伝いさんの
 赤いしもやけの手が
 白い大根の漬物を切る
 その早朝の大気の香り

 しっとりと落ち着いた
 落葉散り敷く大気の中を
 ゆっくりと
 泳ぐように
 歩み出だせば
 鳥たちは身じろぎもせず
 こちらをじっと見つめている
 その暖かき眼差しは
 わが歩みをたすけ導き
 まだ見ぬ山々の
 霧ふかい台地にいざなう

 冷たい大気の無菌室に
 赤い太陽は
 足取り重く
 入ってくる
 いやいやながら
 氷のような雲の塊の
 後ろに隠れながら
 遠い異界から
 無邪気に放つ
 危険な朱色の光を 
 直視せず伏し目がちに
 礼拝! そして
 気にせず歩み続けよう
 冬の朝の匂いを忘れないように



        

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ソクラテスの弁明

  

S 人はなんのために生きているか? この問いが欠けている。
O いや、だれでもそんなこと考えている。
S 君の言うのは、肉屋はいかに多くの客に肉を買ってもらうかとか、月給取りはいかに多くの月給をもらうかとか、そんなことだろう。
O いや、そうとも限らない。肉屋はいかにいい肉を客に提供できるか、月給取りはいかに自分の仕事の内容を発展させていくか、そういうことを第一に考えている人もいる。
S しかし、彼らは他のことは何にも知らない。
O 他のことを知る必要なんてあるの。
S そこなんだ。人生で一番大事なことはなにか、彼らは考えようとしない。そこで私は彼らにそれを考えさせようとしてきた。
O それは余計な御世話だよ。
S だから私は嫌われる。だけどさ、私に言わせれば、それは余計なことではない。人間として生まれたら必須のことだ。
O では訊くが、君は何のために生きていると考えているのか。
S 何のために生きるのかを考えるために生きている。
O なんだそれは。抽象的な男だ。
S だから私はうっとおしがられる。分かりやすく言うと、いろいろ考えたのだが、結局、人はみな善のために生きるべきだ。
O 善とは何だ。
S 善とはよいことだ。
O よいことを善というのとちがうの?
S そうだけどね・・・あれこれのよいことのよいことたるゆえんの理念を善というんだ。
O そういうことにしておこう。それで何が言いたいんだ。
S 私は人に遭うごとに、善を目指して生きているかどうか尋ねる。
O おせっかいだね。そんなことをいちいち考えている暇人はめったにいないよ。
S しかし、なぜか若い人は、私の言うことに納得して、ついてきてくれる。
O 暇だからだよ。彼らも仕事をしなきゃならないようになったら、そんな善問答はしなくなるよ。
S 仕事をするようになってもついてきてくれる若者もいる。
O だから彼らの親たちは君を告発したのだ。君は若者を堕落させていると。
S 知っているさ。
O なぜ君はみながその人なりに善を目指しているのに、それにちょっかいをかけようとするのだ。
S 私がいろいろな人に問いかけて分かったことだが、たいていの人は善など目指していないよ。彼らが考えているのは効率だよ。
O そんなことはない。君のようにうまく理屈が言えないだけの人もけっこういると思う。
S 大抵の人は、自分が何をやっているのか知らない。そしてかなり老いぼれてきてからなんと、一番大事なものは金銭か知名という。
O ぼくは健康第一だと思うな。
S それは当然だよ。しかし、それは健康でないときの言うセリフさ。君こそ抽象的な男だ。私が言っているのは、健康であることを前提として言ってるんだ。で、金が一番大事だと言う人はまあいわゆる凡人といい、知名が一番大事という人を空想家というのさ。空想家の中でもいちばん厄介なのは知識人と言われるやからだね。政治家が知名を大事にするのは当然だが、いわゆる知識人は自分のことを知識人として名が通っていることを喜ぶが、じつは彼らは無知なのだ、そして彼らがいかに無知かをそれとなく教えてやっている私の親切が分からない。
O そういう人たちをほほえましいとして放っておけないの。
S 放っておいてはいけない、と私のダイモンが命じる。そして私はその命令をきかないわけにはいかない。だから私は嫌われる。
O 知識人がそんなに無知なの。ぼくには分からないな。
S 彼らの知識というものはたいてい専門知識にすぎない。あるいはもっと他のいろいろな知識を持った人もいるけどもね。しかし、それは世に流布したただのニュースだ。彼らは分かり切った事を互いに言い合って悦に入っている。彼らは知恵者ではない。何のためにそのような知識を持つ必要があるのか尋ねられたらだれも答えられないんだ。
O でも、人間っていろいろなことを知ること自体が楽しいのではないのかな。楽しんではいけないの。
S 楽しむのは・・・まあほほえましいね。だが、自分に対して嘘をつくことはいけない。彼らは自分を知恵者だと思い込んでいる。その誤りを正してやらなければならない。
O 知恵者でなければいけないの。
S 真の知恵者は善を目指すことで。・・・それは自分に嘘をつかないことが必要なんだ。
O 善、善って、君もしつこいね。
S いつもそうして私は嫌われる。しかし、私はどうしてもよく生きること、つまりいつも善に照らして生きるということだけど、これだけを何よりも大切にして生きるということを言っているだけなんだ。そして大事なことは、それを私一人で考えていてはいけない、どうしても他人と問答し、彼らにもそのように考えさせよ、とダイモンが要求するのだ。
O そんな生き方をしていると、君はどこにも居場所がなくなってしまうよ。
S だから妻にも嫌がられるし、まあそうなってもしようがない。ぼくは死ぬことを恐れてはいない。なぜなら死とは何かまったく知らないからだ。それをあたかも知っているかように語る人がいるが、嘘をついているとしか思えない。
O ちょとおかしいよ。死とは何か知らないから死を恐れないというのは。むしろ人は死について痛いとか、地獄とか想像するから恐がるのさ。知らないから想像してしまうのだよ。
S 想像にもとづいて結論づけるのがいけない。知らないことは知らないと言えばいいのだよ。ぼくはまったくいろいろなことを知らないよ。肝心なことは知らないことだらけだ。あの例の知識人は、なんでも知っているようなふりをしているけれど。考えないからそう思ってしまうのだ。
O なんとでも思わせておけばいいのじゃないの。きみも原理主義的だね。
S ぼくは人間の無知を暴いてやりたくてたまらないのだ。
O おせっかい病だね。君のような人間はどこか人里離れたところで一人で生活すればいいのだ。
S そういうわけにはいかない。ぼくはどうしても人と問答しないではいられないのだ。
O やっかいな男だね。


  S:Socrates   O:Ordinary man
 

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11月風景2

  みどりあかきいろにちゃいろ木々の葉は
    組み合わさってなんと美し

  雨上がりあざやかな葉の興宴の
    うしろに幹の黒々と立つ

  木枯らしにはまだ早けれどたまさかに
    葉の一枚のいさぎよく落つ

  群雀わが梅の木に集まって
    何話しているの大きな声で



  

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退院す

つひにゆく時になってわれ知れり
   ガンは密かな欲のかたまり

 正確に分からぬものは寿命なり
   名医もしらず卜者もしらず

 確率と数字からなる命とは
   いったい誰の命であるか

 長命は恩寵なるかニエットと
   背後にゾシマ長老の声

 さるにてもふと目覚めては心おもく
   これは夢かと思ふ払暁


  

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病室にて

 なにもかも 手遅れなりや 秋の暮

 病室に 一輪の花も なかりけり

 遠くすむ 子らのきたりて 華やげり

 皮肉やな 食べる話題の 盛り上がり

 息子らと 遺影を撮りぬ 帰り際

 目の奥に 入り日の朱の 沁み入りぬ


  

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手術を受ける

手術なんて眠っているだけのことだと思っていたから、ほとんど緊張というものはなかった。麻酔をかけられる瞬間は意識できるのであろうか、それは関心があった。背中の麻酔のチューブと腕の点滴のチューブとつけられて、上向きになる。巨大なイソギンチャクのような沢山のライトが眼前に迫る。酸素マスクが顔に当てられ、看護師が「眠くなりますよ」と言ったと思ったら、ストンと落ちた。これは、後で思い出して言うのだけど、快感だった。こんな風に死ねたらいいと思う。

 次の瞬間は、「○○さーん、わかりますかー」という声が聞こえてきたので、肯いた。しかし、声ははっきり出なかったような気がする。それから、人々の話声が聞こえてきて、「じゃ行きまーす」とともに、自分が手術室からどこかに動かされているのが分かった。けっこうガタガタと振動が伝わってきたからだ。とくにストレッチャーが左右に曲がるときはよく分かった。なぜなら、ものすごくお腹が痛かったからだ。これが術後の痛みか。痛みで体が震えてくる。「痛い、痛い」と出ない声を一生懸命出した。さいわいそれは看護師に伝わったようで、「痛いねー」と答えてくれた。それから背中のチューブから鎮痛剤を追加してくれたのか、〈ものすごい痛み〉は去っていった。

 いまから思うと不思議なことは、そのとき手術が思いのほか早く終わったような気がしたからだ。いま何時?と訊こうとしたが、声が出ずに、またうつらうつらしていたので、訊けなかったが、たぶん部屋についてからか、医師と妻とが何となく小声で話しているその話しぶりから、悪い予感がした。

 しばらくすると、主治医(執刀医)が、「じつは腫瘍は腹膜に及んでいましたので、最初にお話したように、胃は切除しなかったのです。しかし、幸い!この病院でなら、先進の治療法ができますから……今はぼんやりして考えられないでしょうから、また後ほど詳しくお話いたしましょう。」というようなことを言った。

 ああ、そうだったのか。それにしても、幸い先進の医療とは?…と思ったが、それより創部の痛みというか動かせないというか、その感覚とまだぼんやりした意識とで、うつらうつらしていたようだ。

 詳しくは書かないけれど、この場合の先進医療とは、一般的な化学療法の上に、さらに別の化学療法を特殊な投与方法でやることだ。これは、いまのところ、まだ治験中(ゆえに保険適応外)で症例数も少ないけれど、小生のような転移例にはとても有効らしいから是非にという。患者に少しでも希望を与えようとの気持ちも医師として当然あるであろうし、また研究者としての医師としては、当然この様な症例を手ぐすね引いて待っているのであろう。学会で発表するには、ある程度の症例数を必要とするのはよくわかる。

そして、ついでに思うことは、悪いように想像をめぐらせていくと、研究熱心な科学者はデータをついつい治験の有効性を高めようと改竄とまではいかないまでも、選択の幅を広げるとか…熱心であればある程、小保方氏が陥ったであろうような誘惑に駆られやすいのではなかろうか。

 ところで、一般的な化学療法だけでも少なくとも2種類の抗がん剤を併用する。これを、死ぬまで繰り返す。手足のしびれ、口内炎、また貧血など骨髄抑制は、ほぼ必発だろうし、肝臓などの障害も大いにありえる。その上、小生には(今回見つかったことだが)肺の感染症もある。もし化学療法を行ったら、これが悪化する可能性もある。それで、これに対しては、さらに抗生剤を併用する必要がありそうだ。想像するだに気持ち悪くなりそう。

 
 まあそんなわけで、化学療法をするにせよ、しないにせよ、そう長く生きれるわけではない。とにかく身辺整理に忙しくなる。立つ鳥跡を濁さず。それにしても、悔しいことは、切られ損、いまだに創部痛があって、充分動けないことだ。忙しいし、痛いし。


  

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11月風景

  どうだんはわれとおなじくさむ空を
    好むかかくも華やぎにけり


  梅の葉のそろりそろりと散りゆけば
    思ひもかけず鳥の巣のあり


  霜月の空はうつくしたたなづく
    夕べの雲の色のうつろひ


  夕日させばもみぢの赤のひとしきり
    かがやきまして喜びみちる


  若き日の四月に聴きし Impromptu
    この霜月にふと浮かびたり



  

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ガンになる

二週間ばかり前ふと出来心で健診を受けた。ふだんまず健診など受けないことにしているのであるが、さもしい考えで、〈無料〉という文字に引っかかったのだ。

 バリウムを呑む胃のx線検査の直後、技師がちょっと影が見えますと言ったので、ぜひにと画像を見せてもらったら、あらびっくり、胃の下部にはっきりした病変がある。陰影がじつに美しい。直径は3cmはあるだろう、平たい阿蘇山のような形だ。即座にガンだと自分でも判った。

 その日の帰り道、「ついに来るべきものが来たか」という思いを繰り返した。あるいは「とうとう来たか」というべきか、あるいは「やっと来たか」と言う方がぴったりか、あるいはその「とうとう」と「やっと」の入り混じった感じ、その中間ぐらいの感じがぴったりか、これは英語の「anticipated」というのがむしろ近いか、などと考えた。

 まあ、とにかくここ何年と、そのうち命に影響を与える病気がやってくるだろうということは自分に言い聞かせて生きてきたつもりだ。べつに不安をいだいていたわけではない。人生とはいつ突然なにが起こるか分からぬものだとは、まあこの年齢になれば、了解しているつもりだ。

 健診などしなくて何も知らなきゃよかったと頭で思うのは、知ってしまった以上これを早く切除しなければならないという思いに捉われるのと、またそのためのいろいろな検査をさらにやらねばならないのが面倒だからだ。

 なにより、人並みに職場のことが気になった。まず雇い主およびスタッフに報告し、できるだけ迷惑をかけぬように引き継ぎを頼んだりして、支障なく事が運べるよう手をうたねばならないが、これもなかなか思うようにはいかないものだ。まあ、なるようになるであろうと思わなきゃ。

 家族は、もし自分が居なくなっても食べていけるものはあるであろうと漠然と思っている。我が家の金周りはどれくらいあるのかさっぱり知らないけど。ただ人並みに、田舎にある土地や墓の処分のこと、職をもてぬ妻子を残していくことはちょっと気がかりだが、まあ何れはこうなるのだから、ハムレットじゃないけど、来るものは来る、早いか遅いかだけのこと、これもなるようになる、と思わなきゃ。

 それよりも、小生の宿痾ともいうべき蒐集癖で集めたお宝というかガラクタの数々をどうするか。残されたものもこれを価値あるものか無価値なものか判断に迷い、処分にとても困るであろう。もちろん、そのことは普段から考えて最近はずいぶん処分してきたつもりだが、やはり心のどこかに〈まだしばらくのあいだ生きておれる〉という気持ちがあったのであろう。いつ死んでもいいようにと心がけているとは思っていても、はやりどこかに甘さがあったのだ。…

 いやじつはそれどころか、メダカの養育はどうなる、蓮の根分けや梅の剪定は誰がやる。思えば、自分は人一倍いろいろな欲望に浸ってきたのではないか。じつは人生の始末だの覚悟だのとは、はなはだ遠いのではないか。

 というようなわけで、けっきょく病院にかかり、この二週間のあいだに、血液尿便はいうまでもなく、胃の内視鏡検査を二回、腸の内視鏡、胸部および腹部x線およびCT検査、肺機能などのチェックで大忙し。

それにしても、詳しい検査とは恐いもので、これによって芋づる式に悪いところが発見され、さらに思いもよらぬ検査もしなければならないようになって・・・。まあ、時間はかかるし、疲れるし、出費はかさむし。

 何の症状もなかった今迄は、闘病生活というものほど、つまらない生活はないと想像していたが・・・。たまたま〈無料〉という文字に目がくらんで、健診をやってしまったらこの始末。これぞホントの「只ほど高いものはない」(笑)


  

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『石上私淑言』2

   石上小漫談つづき  →  

 うたをどうして和歌って書くようになったのかというと、わが国には神代から〈うた〉を歌っていたのだけど、四、五世紀ごろからかしら、中国から書物がどんどん入ってきて、その中にはとうぜん詩もあったから、それと区別するために、日本の歌をわざわざ倭歌と書いたんだ。

 昔は、むこうの人らは、日本のことを倭(わ)と呼んでいたかもしれないけれど、われわれは〈やまと〉と呼んでいたから、倭歌って書いて、〈やまとうた〉と読んでいたんだ。忘れてはならないことは、倭歌という表記をするようになってから、やまとうたっていう言葉ができたってことなんだな。

 『万葉集』でも、たいていは歌とのみ書いてあるけど、『古今和歌集』は『古今歌集』って表記したらいいのに、もうその時代は、歌のことをなんとなく〈やまとうた〉って言う方がかっこいいと思うようになってしまっていたんだね。序文でも「それやまとうたは人の心をたねとして・・・」なんて紀貫之が書いているね、本当は「それうたは・・・」って書くべきなのにねえ。それにしても外国語が入ってくると、言葉って早く変わるものだね。現代でも、50年前はたんに流行歌と言っていたのが、今はわざわざJをつけてJポップって言うね。そのほうがカッコいいと思うのと同じだね。

 ところで、倭の字がいつのまにか和になったのはどうしてかって? どうもそれがはっきりしないんだな。いろいろ文献にあたって考えてみるに、おそらく孝謙天皇の御時、天平勝宝4年(752年…この年はまた大仏開眼供養の年でもあるね)11月~天平宝字2年2月らしいのだ。これは、国号として大倭国(おおやまと)を大和国と表記するよう詔命が出されたらしく、その後に、和歌という表記が一般的になったらしい。もちろんそれまでも、倭と書くべきところを和と書かれている物もあるが、極めて単発的で書き間違いとしか言いようがない。とても大事なことだけど、昔はコトバは音であって、文字は仮字だって感覚がまだ強かったことだ。

 ついでにいえば、日本という国号は、大化の改新で有名な孝徳天皇の御代に始まったんだ。それまではわが国では大八州(おおやしま)、対外的には中国がそう呼んだように倭の字をもちいていたんだね。

 いくら注意しても注意し過ぎることがないのは、たとえば『日本書紀』にこの様に書かれているからといって、はるか昔のことを文字通り(!)捉えてはいけないってこと、つまり『日本書紀』は720年当時のインテリが、その当時の漢文で(その字義で)書いているってことなんだ。

 もちろんそのことは学問には大いに役立ってきたけれど、歌には直接関係がないね。歌は歌うことに、5音7音のリズムで、音を引きのばしたり、抑揚をつけたりして、ふかく物のあはれをうったえることだからね。この歌があることのゆえに、わが国はすぐれた国なのだ。

 この、物のあはれって、中国でも昔は人のこころ素直で感じやすく、『詩経』にも、そのことがうかがえるけれど、早くからやたら頭ばかりが発達して、理屈っぽくなったり、立派な男らしいことがいいという風潮に染まって、物のあはれが消えてしまった。さすが孔子様はそのことがよく解っていて憂いていたよ。

 わが国も、書物が入ってきて以来、中国のようにどんどん悪くなっていって、奈良時代はもう終わっているよ。しかし、ここに歌があった。これによってわが国は救われたのだね。このことはどんなに強調してもしすぎることはない。

 歌には、あの国のような理屈っぽい難しそうなコトバは相応しくない。そのようなコトバが歌に入ると汚くなる。歌は聴いていて美しくなければならない。わが国の人々の心がどうしてなつかしく穏やかで素直なのかというと、そいういう歌の伝統が神代の昔から続いているから、わが国はカミの国って言うのよ。

 いまにして、かの国人は日本人がなぜかくも礼儀正しいか驚いているけれど、それはわが国には二千年もの歌の伝統があったからよ。物のあはれが分かるとは他人の気持ちが分かることでもあるからね。いくら力や制度で人々を規制しようとしても、それは無理な話で、汚い言葉や利己的な行為はいくらでもそのほころびから出てくるものだね。

 もちろん、日本人も外国の書物でかなり汚染されてしまったけれど、歌の伝統によって長く培われた心はなお幾分か残っているようだね。よかったね。

 うたのちから、あなかしこ、あなかしこ



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『石上私淑言』1

『石上私淑言』(いそのかみささめごと)ならぬ石上小漫談

 いったい歌(うた)とは何なの。それは深く感じたとき必然的に出てくる言葉なんだ。ああとかうーんとか、溜息なんかもそうかな。でもそれだけではだめで、どうして溜息が出るのか、聞いてくれる人がなるほどそうなんだと納得して同じように深く感じてくれないといけないよ。

 そのためにはそれを話す時の調子が物を言う。たとえば、人がある驚くべき状況を他人にうまく説明しようとするとき、身ぶり手ぶりのジェスチャーをしますでしょ、話の順序、声の抑揚を工夫しますでしょ。そう、まさに歌の発生はそこにあるの。

 まず、人が深く感じてそれを短い言葉で的確に表そうとすると、ある音を長くしたり、リズムをつけたりする、そのさい5音や7音の一纏まりがなぜか古来日本人には、心にすーっと入って来るの。もちろん4音でも8音でも、音や品詞や意味の続き具合によっては、5音や7音として捉えられるからそれでもいいんだけど。

 いくら物に感じたとしても、ただぶつぶつと独り言をいうように声を出しても、また本を読む時のように淡々と声を出しても、それは歌ではないよ。人に上手く聴いてもらうように、上手くあやをつけて歌わなければならない。そこに〈あはれ〉の深さがあらわれるの。

 前にも言ったけれど、もののあはれって、とにかく物に感じることなの。どんなことでもいいのだけれど、とくに恋しいとか悲しいとかいうときには〈あはれ〉は深いの。これは人間に特有の、第六の感覚みたいなもので、誰にでも備わっているけれど、敏感な人や鈍感な人がいるわねえ。

 たとえば、耳が聞こえない人は、雷が鳴っても恐がらないね、目が見えない人は虎や幽霊が出てきても恐がらないね。同じように物のあはれの場面に遭遇しても、あはれを感じない人は、歌も出てこないわね。

いつから人は歌を歌うようになったかって。それはもう天地が開けたときから、つまりイザナギの命とイザナミの命が「あなにやし・えをとめを」「あなにやし・えをとこを」って、おたがいに唱えあわれたときからって考えられるね。『古今集』の序にもそう書いてあるし、何と言ってもこのお二人の御唱和は、五言二句のよい響きの感嘆だもん。

「あな」っていうのは、甚だ切なるっていう意味で「あなかしこ」「あなたふと」なんていうでしょ。「や」っていうのも感嘆だし、「をとめ」は、妙齢の女性、「をとこ」は若い盛りの青年、最後の「を」は、~よ!ってことで、要するに「何て好い青年!」「何て素敵な女!」って感嘆なさっているのですよ。

ということで、神代の昔から「うた」はあったのだけど、「歌」という文字を「うた」ってコトバにあてがったのは、ずっと後のことだということを忘れないでね。

   

    

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『排蘆小船』

『排蘆小船』(あしわけおぶね)には、20歳代の宣長の新古今和歌集への敬服が正面切って述べられていておもしろい。

 日本人として生まれたからには和歌をつくらないでいては人生もったいないというようなことを主張し、そうして新古今の和歌の数々をいわば神棚に祀るがごとく毎日拝み味わうべきである、しかしあまりに素晴らしいので、決して直接に真似をしてはいけない、と言っている。

 新古今の歌に少しでも近づくには、新古今の作者たちの多くがそうであったように、古今、後撰、拾遺のいわゆる三代集をよく読んで、これらの歌を手本として創るべきである。新古今を直接お手本にしたり、ましてや張り合おうとしてはいけない。

 家定卿もいわく「和歌に師匠なし、旧歌を以て師とす」と述べているではないか。今(江戸時代)和歌は一見盛んで、また和歌の一分枝である連歌、俳諧なども盛んである、しかし平安のあの時代からはずいぶん衰えてきている。また、和歌の師匠たちは○○派だの何だのと家流を誇っているが、ろくなことはない。中でも有名な古今伝授というのは、それこそイワシの頭もなんとやら。

 この伝授というものは、東常縁(とうのつねより)という愚か者が後世を偽るために考え出したもので、秘伝と聞けば有り難がる大先生らがコロッと引っかかったんだな、今でも習い物には笑止千万がつきものですな。

 さて藤原定家がすぐれた歌人であったことは誰もが認める所である。そして、元俊・俊成・家定とすぐれた歌人がこの家からでたことから、一家流がすぐれた歌人を排出するものであると人々は思いこむ。しかし実際はさにあらず。定家は定家であるがゆえに名人、かりに他の家に生まれて修行したとしても名人であったにちがいない。

 しかし人の思い込みは強く、定家の流れを引く二条派が和歌の勢力をもった。それでいっそう歌道は衰えたのだ。このとき(鎌倉後期)政治騒動も相まって、二条派に対して京極派が新風を吹き込んだ。

 この京極派にたいする反発がじつに宣長らしくて面白い。「およそこの道、古今(ここん)を通じてみるに、この二集(玉葉集・風雅集)ほど風体の悪しきはなし。かりそめにも学ぶことなかれ。」宣長にしてみれば、これこそ新古今を直接真似ようとして、なかなかうまく行かず、思い切った角度から新奇さをねらった、じつに姿かたちの悪い、風雅の対極に位置するものであろう。

 これに較べれば、まだ二条派の方が正統なのである。こう語る宣長が、もし明治以降の短歌を、たとえば与謝野晶子の「その子二十(はたち) 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」を耳にしたら、なんと言うであろう。

 歌を詠むとは、人情すなわち自分の思いを、古の歌人の真似をして詠むのがよい。人の心は時代とともに変わる。現代の複雑な、偽り多い心をそのまま詠もうとしても俗悪なままだ。俗悪な歌は実情ではない。いかに偽りが多くても歌は風雅でなくてはならない。古のたとえば三代集を手本として、自分の心を詠むように心がければ、だんだんといわば歌の姿を得ることができ、それすなわち実情を表すことができるのだ。

 歌は〈うたふ〉ということであって、長くのばしたり抑揚をつけて声に出すってことが大事だ。そういえば、どこかで読んだのだけれど、宣長は夜分一人でよく声を出していたらしい。たぶん古文書(いにしえのふみ)を読んでは、発音や抑揚をあれこれじっさいに声に試して考えていたのであろう。たぶんそうやって『古事記伝』は生まれた。
  


     

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『紫文要領』 2

光源氏の母である桐壺更衣は強い後見のいない人で、源氏を生んでまもなく他界する。非常に聡明な源氏が7歳に達したとき、帝は高麗の人相見に源氏を占わせる。「光源氏は天皇という最高の位にのぼる相の人ですが、しかしそうなると世が乱れ憂いことになりましょう。しかし政治を補佐する立場の人になるかというと、それもちょっと違います。」と言って高麗人は首をかしげる。それゆえ帝は源氏が政争に巻き込まれることを恐れて、源氏を臣下に下した。

 これが非常に重要な伏線である。いったいこの人相見の予言は何を意味しているのか。源氏は出生においても少年時においても順風満々ではない。しかし、源氏は容姿の点でも芸事においても、知力体力あらゆる点で抜群である。あらゆる「良い点に目をつけること」が物のあはれを知ることの本質である。それゆえいずれ源氏を帝にしなければならないが、・・・

 物のあはれの体現者である光源氏は、当然多くの女性に感動し恋をするが、帝の后である藤壺との密通は最大の罪である。しかし、作者はこれを断罪するのではなく物のあはれの究極と見る。そしてこれこそ必要不可欠の事件なのだ。もちろん藤壺も源氏も罪の意識で悩み仏道に救いを求めるかもしれないが、まさにそのことが物のあはれなのだ。仏道ですらも物のあはれの深化の一助にすぎない。

 この密通で生まれた子が長じて冷泉帝になるのだが、この秘密を知っているのは僧都と王命婦だけである。そして藤壺死後、夜の勤めを終えたこの齢七十過ぎの僧都は冷泉帝と二人きりになった時、その秘密を冷泉帝に語る。

 『薄雲』のこの部分に宣長は固執する。何故老僧都はこの期に及んで秘密を冷泉帝に明かさねばならなかったか。そしてそれを知った驚天動地の冷泉帝。彼は何を悩んだのか。

 宣長の解釈によるとこうなる。僧都は語る、「仏のお告げによってこの秘密を語るのです。いつまでも帝がこれをお知りにならないことが、このところの天変地異や世情の騒然を起こすのです。帝としてのあなたが今あるのは親(源氏と藤壺)のおかげです。それなのに、親である源氏を臣下にして仕えさせておけば天は黙っていないでしょう。」

 それを知った冷泉帝は悶々とする、その事実を知らないで父を臣下として仕えさせてきたことが辛くてならない。そして一旦は帝の位を源氏に譲ろうとするが、このときは、源氏はやんわりと拒否する。

 注目すべき点は、天変地異が源氏と藤壺の密通の罪のゆえと一般に解釈されそうだが、そうではなく、冷泉帝が源氏を臣下においていた故だということ。そして、密通を犯した源氏が非難されるようなことは少しもなく、むしろもっとも深い物の哀れとして肯定され、もしこの秘密を冷泉帝が知らずにいたら帝に天罰がおりるだろうとしていることである。

そこから、源氏は帝の父であるゆえに太上天皇の尊号を与えられることになる。ここにおいて、源氏は最高の禁忌を犯し、かつ最高の地位を得ることに成功する。この綱渡り的な矛盾を生きることによって、源氏は最高の物のあはれを発揮し、これによって初めの高麗人の予言は解決された。

『源氏物語』の作品構成。初めに物のあはれというテーマが式部の頭に鳴る。そして作品の中心にこのテーマを凝集させ、末端に、そこからすべての曲折が有機的に絡み合い、見事な長編小説に仕上げている。式部の手腕おどろくべしと宣長は激賞する。



   

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『紫文要領』1

 今では誰もが〈物のあはれ〉と聞けば『源氏物語』を連想する。そしてこの物語が〈物のあはれ〉を表すために書かれたと最初にはっきり言い切ったのは本居宣長である、ということも多くの人が知るところである。

 この『紫文要領』は宣長の『源氏物語』というか紫式部信仰告白の書であって、これを読む人は、〈物のあはれ〉という判断基準で、快刀乱麻を断つごとく、あらゆる旧来の源氏解釈をばっさばっと切っていく若き宣長の一本気に気圧されるのではなかろうか。

 今では物のあはれという言葉はあまりにも有名になり過ぎたが、この『紫文要領』を読んで思うに、物のあはれは簡単に言えば感動するということであって、さらに言えばその感動する心がいちいちの情況に応じて的確な方向性をもって現れてくる運動のことであり、そしてその運動の軌跡が美しいのだ。

 宣長が言うのは自然の風物のみならず人事のことにおいても、何に接しても心が動く、そしてそれからなかなか離れがたいのが、物のあはれを知ることであり、したがって恋をすることももちろんそうであるし、不倫の恋をすることもさらにいっそうあはれは深いのであって、それを不道徳だの何だのと批判するのは物のあはれを知らない人だ。また他人の悲しみや難儀を見て何も思わぬ人、他人をけなしたり強く咎める人、自説をかたくなに主張する人、知ったかぶりをする人なども物のあはれを知らない人だ云々。

 物のあはれを知る心は、ものをより好いように見ようとする、好い面を見ようとする。姿かたち、ふとした表情、立ち居振る舞いの美しさに鋭敏であり、いろいろな能力、地位といったものまで、素直に肯定的に見る。

 しかし宣長のこの本のなかで小生が一番面白いと思った点は、紫式部は『源氏物語』という長編小説を非常に意識的に計算して創ったという点である。〈物のあはれ〉をどのようにすればもっとも効果的に表現できるかを事前にしっかり考え、全体の構成にとりかかった、ということを示している点である。

 物のあはれという言葉で表現されるたぐいの心の動きがある。それを物語の個々の場面で登場人物の言葉や態度のうちに、上手く配置して表さねばならないが、さまざまな登場人物に一様にばらまくことから始めるとその効果は薄いし、かえって作り物めいて見える。むしろ一人の主人公を圧倒的な物のあはれの体現として、そこからすべては流れだし、末梢の個々の部分でそれが反映するように考える。

まず主人公をもっとも優れた好い点を備えた人物にすること。主人公にもっとも優れた地位を、最高の栄誉を与えること、つまりは主人公その人を最終的に天皇の位に着かせなければならない。 

次にその主人公にもっとも深い物のあはれを経験させなければならない。もっとも深い物のあはれとは何か。それは、もっとも困難な恋を経験させることである。もっとも困難な経験とは何か。それは禁断の恋、最高の禁忌、すなわち臣下の者が后と恋に陥り密通するという大罪、これを犯すようにしなければならない。

最高位と最大罪という矛盾を、主人公一身に背負わせ、解決しなければならない。そのためにはどのように筋を組み立てていかねばならないか。



       

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知多半島一周

数年来の念願の知多半島自転車一週を果たした。幸いその二日間は上天気であった。事前に自転車の整備を怠ったため、出発直後30分くらい時間のロスを生じた。

 まず東浦町に住む友人M氏を訪ねるべく、半島の中ほどの道を進んだ。大高の街を過ぎてからは、できるだけ車の通らない道を選んだ。これがよかった。独特のちょっと肥しの匂いが混じった空気と畑やハウスがどこまでも続く丘陵地帯。

  つひ思ふここは日本かかつて見ぬ
     なだらかな丘遠く続けり

 そうだ、知多半島には山がない。二時間半でM氏宅に着いた。彼はいつも笑顔の人だ、彼と会っていると余計なことが消えていって、透明な気持ちになる。用意しておいてくれた昼食を共に閑談、しかし長居によって再出発の気力を殺がぬよう早めに別れた。

 しかし、ここから常滑方面に向かったのはよいが、何度も道に迷い海岸沿いの道にでるのに苦労した。後で知ったが、ずいぶん余計な道をたどっていたのだ、しかもわざわざアップダウンの多い道を。
友人の家からは東南方向に下っていけばいいだけだとたかをくくって地図を持って行かなかったのが百年目。しかし、

 誤まってまた誤まってわが人生
  もはやこの質(たち)生きるしかなし


ようやく海が見えてきてほっとした。海岸沿いの道を軽快に走ったが、脚とお尻がとても痛くなって、坂井という所で休憩した。海の堤防のところで寝ころんで、数名の人たちがスノーボードのような板を履いてハンググライダーみたいなのに引っ張ってもらって水上をすいすい行ったり来たりしているのを見ていた。

すぐ近くで見ていたのだが、なぜあんなに上手にできるのか不思議だった。風は向こうからこちらの岸に向かって斜めに吹いている。それなのにどうしてここから出発して海の向こうに行って、しかもいつまでも右に左にすいすい滑っておれるのだろう。ヨットなら分かる。しかしただのボードに乗っているだけで、風に煽られて岸にぶつかってこないのは、どうしたわけだろう。・・・などと考えていたら時間が経ってしまった。が、疲れも取れた。

がんばって、予定の師崎(知多半島先端)辺りまでは無理としても、内海(うつみ海水浴場)ぐらいまでは行けるかもしれない、内海まで行けばどこか空いている民宿はあるだろうと考えて、そこからずいぶん頑張って飛ばした。

義朝の首を洗ったという池のある野間(のま)を通り過ぎたのが5時くらいで、これじゃとても6時までに内海には着けまい、あまり遅くなって素泊まりだけさせてくれるのは難しいかもしれない、などと考えながらぐんぐん飛ばす、5時40分くらいのところで、日吉苑というホテルが見えた。

部屋が空いているか尋ねると、一つだけ空いてます、ただそこはエアコンが壊れていますがいいですか。二食付きで12000円ですが、という。食べるのが目的じゃない、きっと多すぎるほどの海の幸を出してくれるんだろう、これを半分に減らして安くしてよ、と内心思ったが、そんなこと言える訳がない。温泉も入りたいし、疲れてもいる、どんな部屋でも寝られれば渡りに船だと思うべきだと、とっさに判断した。

部屋の準備ができるまでしばらく待っていてくださいと言う。海辺を散歩したかったのでちょうどよかった。夕日はすでに伊勢湾のむこうの山の端に接している。このかなり赤い光が今の自分の疲れた体によく似合うと思った。ランボーの「もう秋か、それにしてもなぜ永遠の太陽を惜しむのか・・・」という風情とは全然ちがう、沈みゆく太陽への共感が胸を満たしていた。

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目の前の岩は赤く照らされ、黒々とした水の上を白い波が執拗に大きな音を立てながら押し寄せていた。太陽が沈み、闇が深くなるにつれ、白い波がますます白く、しかしその距離感がますます不分明になっていって、なぜかだんだんこちらに迫って来るように思われ、恐怖を感じた瞬間、踝を返してフロントに戻った。

早速えらくしょっぱい温泉につかり、夕食を済ませ、窓際の椅子に座って、ぼーっと海上の光の明滅を見ていた。ちょうどこの季節、窓を開けておくと、よい風が入ってきて、エアコンなどなくていい。

 ちらちらと揺らぐ灯かりの対岸に
      突如火の玉あれは花火か

万一のため睡眠薬を呑んで寝た。


朝、朝食を一番に済ませて、またあの水際に行った。

     P9142725.jpg


 朝日させば波間の水の透明の
     海いろ深し宝石のごと

出発8時。昨日の遅れを取り戻すべく急いだ。しかし、あまり無理をすると後でダウンする恐れがあるから、体と脚の疲れ具合に注意した。それから、サドルに当たるお尻というか股間の痛みを軽減するために、下り坂はできるだけお尻を浮かせた。

かなり飛ばしているつもりでも、プロというか、例の競走用みたいなえらく細いタイヤでハンドルがぐっと下に曲がった自転車に乗って、ヘルメット、サングラス、スパッツみたいな専用服を着ていく人たちが、どんどん追い越して行く。あっという間に遠くを走っている。やっぱり違うなぁ、あの自転車と言い、格好と言い・・・、あれに較べると、小生の自転車はギヤこそたくさん付いているが、ハンドルはマウンテンバイク的だし、前には買い物かごが付けてあるし、うしろは荷台に鞄がぐるぐる巻きにしてある。恰好もフツーのTシャツと黒ズボン、日本手ぬぐいで頭と首を被っている、どうみてもフツーの、というよりちょっと変わったおっさんだ。負けるに決まっている。

1時間と少しで、昨日その辺まで着くはずだった〈まるは食堂〉に到着。そこの海岸沿いの駐車場で休憩。と、二人の女性が写真のシャッターを押してくださいときた。二人とも高いヒールを履いて、とてもスタイルがよく、ミニスカートがまぶしい。20歳代と思われるが、ちょっと化粧が厚い。とにかく喜んでシャッターを押してやった。iPadだ。いろいろなポーズを撮った。

「どこから来たの?」「名古屋から」「二人ともスタイルがいいねぇ。モデルなの?」「(頭を横に振って)ううん。これから大阪へ行くの」「どうやって行くの?」「車で」そんなことをしゃべって、別れたのだが、その後で、どうしてか芭蕉の句「一つやに遊女もねたり・・・」が浮かんできた。

そこから半島の先端、師崎港までは、わずか10分ばかり、ここへ来たという証拠にフェリー発着場の写真を撮り、軽い達成感を覚えたと同時に還りの道中の困難を思った。というのは、途中の半田(はんだ)から我が家まで迷わずに心地よい道を通って行ける自信がなかったし、疲労とお尻の痛さがさらに強くなるだろうと予想したから。

    P9142732.jpg


それから二時間ばかり、右に海を見ながら走ったのだが、向こう岸に渥美半島がずっと見えるはずだが、どうも様子が違う、かといって三ヶ根山のような山も見えない、おかしいなぁと思っていたが、途中で三河湾の形をよくよく思い出してなんとなく了解できた。

途中、時志(ときし)観音というのがあって、そこが見たくなったこともあって休憩。そのとなりにあった喫茶店の人にむこう岸の地理について確認してもらった。咽がえらく乾いていたので、氷を食べた。

 海中より現れいでたる仏様
     三河の海をまもらせたまふ


このお寺自体はどうってことがないが、この半島には建物とか境内の木とかがなかなか素晴らしい寺が多いことに気が付いた。

木と言えば、この辺りに四肢が曲がったような松の木が道路沿いに生えていて、形から想像するに、若いとき何度も台風か何かで痛めつけられたために、上に伸びず這うように生きる道を選んだといった感じがする。


     P9142743.jpg



その姿に共感を覚えて、

 真っ直ぐに伸びるもよけれわれこそは
     この生き方を天与と思ふ




ちょうど正午ごろ、半田駅の前を通り過ぎた。広い道路に近代的なビルが建っていて、なにかちょっと気になって、一筋、二筋裏通りを走ってみた。するとやっぱり細くて暗い路地にバラックの、あるいは半分朽ちた長屋が並んでいる。概してこの半島の街は一筋入ると、こんな細い路地が入り組んでいて、なぜか家屋は黒く塗られているのが多い。

いまの日本の地方都市は、とくに大都市から離れた海辺の町はこんな感じだろう、しんとして、老人と猫しかいない。古い街道は車こそ通れ、埃だらけのガラス戸の内側のカーテンは閉められっぱなし。若い人はこんな町を離れたくなるだろう。しかし旅人はこの様な風景にこそノスタルジックな魅力を感じ、むしろそこに新しい現代住宅を発見したら興ざめるのである。

とにかく半田を過ぎてどんどん北に走ると新しくできた広々とした道路になっている。どこを走っているのか全然わからない、がとにかく北方向へ進んだ。幸い快晴で太陽の位置が明瞭だから方向は間違いない。ある大きな交差点に出た。道を挟んでコンビニが二軒ある。

そのとき、はっと息をのんだ。昨日M氏が、ここを曲がれと教えてくれた交差点、まさに昨日通った交差点だった。キツネにつままれた気持ちだった。なーんだ、ここに出たのか。ならば、M宅の近くだ。それならってことで再度M宅に。近くの喫茶店でお茶し、それから、行きに来た道と違うコースを通って帰った。どこにでもある都会の郊外の広い道で車も多く、ぜんぜん面白くなかったので、イヤホンで朗読を聴きながら帰った。


    

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夏の思ひ出

 

  エサ時は指に群がるメダカども
      現金とも見え いとしくもあり
        

   

       メダカ餌1  



   何となく義母を邪険にする女(ひと)が
      平和憲法を賛美してをり



   朽ちかけた鳥居の下をくぐりゆく
      老婆がひとり炎天の下



   蝉止んで緑陰の午後をさな子が
      二人蹴る石音のかそけさ



  

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8月風景1

1 ominous lull

目の前の公園の木木の葉はまったく動いていない。それほど暗くもない、均一な曇り空の下、全き静止というのは不気味なものである。

 朝か昼か夕か明らかにしない。カラスの声が時おり、どこからともなく定期的に聞こえてくる。一面単一な薄明かりの空を見つめていると、霧に包まれた湖のような気がする。

 しかし空気は爽やかではない。むしろ蒸し蒸しした―、ちょっと息苦しくさせる大気だ。ひょっとして巨大な人工的な球体に入れられているのかもしれない。きっとそうなのだ。どうして今までそれに気付かなかったのだろう。

 この閉じられた球体の中で、気圧が上げられたり下げられたり調節されている。われわれはきっと大きな飼育器の中に生かされているのだ。その観察者はあまりにも大きくてわれわれの目では捉えることができない。

 いやその観察者から見ると、われわれはあまりにも小さいのかもしれない。ちょうどわれわれが蓮の葉に残った水の球体の中で動き回っている虫を観察するように。

 2

 しとしとしと、しとしと、しとしとしと
 心地よい雨のリズムはどこから来る。
 朽ちた古家の樋。
 錆びたトタン板の穴から明るい空が見える。
 古代人が見たような空が。
 今日はきっとよい獲物に恵まれる、
 祈りはカミに届く。
 藁屋のまん中に
 ごつごつした石で囲まれた神聖な
 中心、そこに揺らめく小さな炎。
 その炎に照らされた顔は、
 みな同じ、こちらを見つめる。
 瞳も口元の皺、おかっぱ頭
 まったく同じ、やおら、
 彼らは踊だす、火の回りを、
 強いリズム、緩やかなリズム、
 シャン、シャン、シャン、
 歌い、叫び、呻き、喘ぎ、
 旋回、跳躍、痙攣、失神―。


 夜が明けた。出発だ。薔薇のような空が心地よい風で送ってくれる、まだ見ぬ土地。

 3

 顔を洗って、口を濯いで、いただきましょう。
 朝はパンと紅茶です。
 青い縞模様のスーツに身を包んで、おっと髪形が崩れていないか、もう一度鏡を見てと。

 電車の中には、いろいろな人が居ます。
 黒いスーツに身を包んだ背の高い30くらいの女性。鼻が高くえらが張っていて、真っ黒な髪の毛を後ろに巻貝のように束ねています。この人は日経新聞に見入っています。

 リュックを背負った40くらいの男、口の周りにひげを蓄えて、じっと一点を見つめています。ぼさぼさ頭のTシャツをぞんざいに着た若者が長い脚を広げて坐って、携帯を器用に右手でぴこぴこしています。50くらいの二人のサラリーマンが、くたびれた表情で窓に見える景色や天上に目をやったりして、ときどきは何かささやき合っています。

 電車はカタコトとリズム正しく音を立てています。時折は、キーと耳をつんざくような大きな音を立てますが、たいていはカタ、コト、カタ、コトです。じつはある時これが、カタンコトン、カタンコトンと聞こえてきて、こちらの方が気に入って、それ以来、カタンコトンと聴くようになってしまっています。

今朝も、カタンコトン、カタンコトンと心の中で歌でも歌うように聴いていると、これが何故か連想的にロッコン、ショウジョウ、ロッコン、ショウジョウとなってきましてね、もうこれから離れられません。六根清浄、六根清浄、面白いでしょう。

 六根清浄って言葉をどこで覚えたか思い出せませんが、とにかく、この言葉を心の中で繰り返しているうちに、電車の中にいる人たちみんなが小声で「六根清浄」を唱えているように聞こえてきて、そう思うと黒スーツの女性も、Tシャツもおじさんらも表向きはあんな姿であるけれど、それは仮の姿であって、じつはみんな解脱しようと頑張って修行しているのだなぁ、ということが判りました。

 電車を降りて、急ぎ足に行交う人々を見ると、もうみな鈍色の衣を身につけた苦行僧のように見えました。

 4

  O.サックス氏の本にあった。

 眼球の疾患で生後間もなく盲目になった人が、50歳になってから眼の手術を受けた。
 彼はそれまで按摩で生計を立て、身の回りのことに何の不自由も感じなかったし、
 野球放送をラジオで聴くことをこよなく愛していた。
 が、周囲の人に勧められて手術を受けた。 

 手術は成功し、眼球の機能は戻った。
 で、彼は物が見えたか?
 案の定、he didn’t look at anything.
 彼の目に映ったのは光と色と動きとの
 無意味なぼんやりした混沌であった。

 この症例から判ること。
 われわれが当たり前だと思っている〈このような世界〉は、
 もともとそのようなものではなく、
 そのように人が創っている、と いうこと。

 5

 こんな曇りの日には
 いつものように言葉遊びをいたしましょ。

 Make haste slowly
 A wise fool
 An ugly beauty
  faultily faultless
  cruel kindness
  quiet noise
  ……
 
 
   

  

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8月15日 3

 

  戦ひを肯定したる我ひとり
   あくる日みなにいぢめられけり

 人の世は多勢に無勢かはりなし
   戦争中も平和のときも

 自然力われらの知力を超えるもの
   歴史の動きも人智を超える

 それゆゑにこの悲しさは人をして
   宗教科学芸術を生ましむ



  

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『勝鬘経義疏』5

しかし、『勝鬘経義疏』についてどういう風に語ればいいのだろう。小生にはこの混沌とした全体を上手くまとめて語れる能力はない、ということがはっきりしている。しかしここで最も重要なキイワードだと思われる〈如来蔵〉なるもにちょっとだけ触れてみよう。

 勝鬘夫人はこの世において初めて仏の声を聞くことができた、という。聞くとは理解するということであるが、ことさら聞くという言葉をつかうのは、精神の態度が大事なのであって、人は聞くためには己をむなしくするのみならず、聞こうとしなければならない。

 すると仏が現れる。夫人は仏を讃え、仏の救いを乞う。仏の言葉に夫人は理解を深めてゆく。最終的に〈一乗〉に目覚める。〈小乗〉は、ただ自己のさとりだけを求めて、他者を教化するということを避けるが、〈大乗〉は、自己がさとりに至ることを求めず、人々を悟りへ渡して救うことを第一とする。さらに〈一乗〉はさとりの諸段階を通り越してしまう。

 するとそこに如来蔵という理念が表れる。如来蔵は本来、深遠で超越的な清浄そのもので、われわれの認識の対象ではない、と思われるのであるが、実はわれわれの煩悩の中に隠れて存在している。煩悩の外にあるのではない。

 そして、ここにおいては煩悩を滅するとは、おそらく小乗で説かれた、自力のよる煩悩の壊滅、つまり有から無へという相対的なもの、時間性においてあるもの、ではなく、そもそも始まりも終わりもない、時間性を超えたものだ。

 もしこのとこを疑わないならば、如来蔵が露わになった姿の法身を見ることも確信できるのだ。法身とは真理を身体とする仏のことである。それは形はないが目に見えるものである。

 如来蔵とは、過去・現在・未来を超えたもので、生命そのもの、この宇宙における人間種の根底を流れる生命の源泉とでもいうべきものだ。それは、個や我あるいはその生死、輪廻を超えていながら、そこにおいてある。

 またこういう言い方もできる。(この世的な)生死は人々の心の中でさとりの原因となりうる。その結果、如来蔵の潜在的存在に目覚めるが、その目覚めは、じつは如来蔵によるものではないか。

 人々はなにゆえ、この世でこの時間において生きながらえているのか。なぜ苦を厭い、楽を求めるのか。それは如来像の道理ゆえである。時間は流れる。では何に対して流れるのか。

 草木には迷いがなく、人間は迷うものだ。このことは人間は悟りへの道を歩むという本性があるということだ。これを根底で支えているものが如来蔵なのだ。だから如来蔵は人間の存在価値を保証している。

 では、どうして如来蔵は清浄なものであって、迷い穢れの煩悩の中にあっても、生死に染まることがない、ということが分かるのか。なぜなら煩悩は数限りなくあり、ときには非常に巧妙であって、これが善これが悪と分別しがたいことがあるではないか。

 それは事象をどのように見るかによって異なってくる。個別的実体として捉えるか、実体はなく生滅変化があるのみであるとするかによって、見え方が違ってくる。こんなに微妙な心の世界をわれわれは決定することができるであろうか。できない。われわれは仏性としての如来蔵を信じるしかない。

 理解力があるとは、究極まで疑うことができるということであり、だからそのような人は仏の信仰に進むことができるのだ・・・

  

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『勝鬘経義疏』4

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『勝鬘経』は、敬虔な仏教徒の両親をもつ非常に聡明な勝鬘夫人が仏法の信仰への道を、仏の導きによって歩んでいく過程を、仏との対話(とはいえほとんど独白の形式で)書かれた経典である。義疏とは、経典の内容の解説のことである。

しかし、『勝鬘経義疏』を読めば、それはたんなる解説というものではなく、解説の形式を借りて、矛盾や繰り返しをすら意に介しない太子の思想が燃え出ているのを感じることができる。

『義疏』は、中国の僧たちの『勝鬘経』解説をほとんどそのまま典拠にしている、という研究者がいるそうだ。が、そうかもしれないが、そんなことを言っても別に面白いことはない。以前触れた『十七条憲法』が、儒教、老荘、仏教などの夥しい古い書籍からの引用からなるということを中国古典の泰斗は証明するが、それはもちろん、学問的には必要な研究ではあろう。しかし、われわれ一般人にとってはそれだけではさして面白くないのである。

人間の行為を外から分析しても、それだけでは退屈なだけだ。例えば、100メートル走を科学的に捉え、諸々の骨格、神経、筋肉などの経時的変化の詳細をいくら積み重ねても、各走者の独特の推進力は出てこないだろう。そして、われわれが感動するのはまさにこの力なのだ。

われわれは、『十七条憲法』を断片の組み合わせと見てはなるまい。いわば太子の思想という推進力の軌跡なのだ。外側からではなく、内側から見れば、『論語』からの引用と仏典からの引用とが矛盾するなんてことはないし、言ってもしようがない。そして『勝鬘経義疏』を書けた人こそ『十七条憲法』を創れたと感じる。

   

『勝鬘経義疏』3

『日本書紀』の推古21年(613年)に、―この年は太子が『勝鬘経義疏』を完成した年であるが―、こんな記事がある。

太子が片岡山を通りがかったとき、飢えた人が道に倒れていた。太子は名前を問うたが、答えがなかった。太子は食べ物を与え、自分の着ている服を脱いで彼を被ってやり言った「ゆっくり休んで」と。そして歌を詠んだ―

〈しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ〉

明くる日、太子は飢えた人を見てくるように使いを出した。使者は帰って来て報告した、「飢えた人はすでに死んでいました」と。太子は大いに悲しまれ、その場所に埋葬し墓を作った。数日して、太子は近習に「あの飢え人はただの人ではあるまい、きっと聖人にちがいない」と仰って、ふたたび墓の所へ使いを出した。使いは帰ってきて報告した、「墓はそのままでしたが、空けてみれば屍はありませんでした。ただ服はちゃんと畳んで棺の上においてありました」と。そこでまた太子は使いに、服を取って来るように命じ、それを今まで通り着用した。人々は大いに驚いて、「聖は聖を知るということは本当なんだ」といよいよ畏まった。

後の人が尾びれを付けずにはおれなかったであろうこの話は、『日本霊異記』にも取り上げられているし、『万葉集』巻三の挽歌―

家ならば 妹が手まかむ 草枕
  旅に臥やせる この旅人あはれ

 が太子の和歌として載っている。

とにかく何より、『日本書紀』のこのあたりを担当した作者はよくぞこの話を残しておいてくれたと思う。

政治改革を断行してきた摂政皇太子が、道に倒れている乞食に食物と衣服を与えたという。これは驚くべきことであった。この記事を小生はとても面白く思うし、素直に信じられるし、またそうでなければ、『勝鬘経義疏』の迫力が半減する。




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『勝鬘経義疏』2

昔からいかなる部族にもその部族の神があったが、また大帝国をまとめるために新しい宗教を利用した為政者もいた。まず思い浮かぶのが、ローマにおけるコンスタンティヌス、イスラムのモハメッドや後のカリフ、古くはインドのアショカ王もそうか。

欽明天皇の御代に仏教が伝来してから数十年にして聖徳太子という人物が摂政としての地位に着いたのは、わが国にとってあまりに幸運であった。そういえば、その時はまだ国家というものはなかった。というか日本という国号もおそらく聖徳太子の業績の賜物であって、太子がまさにこのとき、国の統一のためには仏教を必要とすると感じたのも、またそのために大政治家蘇我馬子と軌を一にできたのも幸運であった。

太子は非常に短期間のうちに政治改革を行った。遣隋使派遣、小懇田(おはりだ)遷都、冠位十二階制定、憲法十七条制定、法興寺と金銅仏像制作、斑鳩宮に転居。勝鬘経や法華経の講義。目立った所だけでもこれだけのことを7年の間にやっている。(600~607年)

ところが、いつ頃からか聖徳太子は、仏教をたんなる国家統一のためではなく、本格的な思想の問題として取り組んでいった。すでに早くから彼の心を悩ましている問題があったからだが、それは、何故この世の中はこうなのか、そしてこの世の中でいかに生くべきかという問題である。仏教はその問題を考えるための格好の文脈を与えてくれた。

おそらく太子の目には、政治ではそう簡単に人の世は変わらないという思いが、痛いほどはっきりしてきたのだ。だからいつ頃からか、太子と蘇我馬子との間に隙間風が通うようになっていたのではなかろうか。馬子は、内面の思考に沈潜する太子がだんだんと疎ましく感じられるようになっていったのではなかろうか。

  

  

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『勝鬘経義疏』1

親鸞は聖徳太子を崇拝していたという。『勝鬘経義疏』(しょうまんぎょうぎしょ)は小生にとってじつに難解な本である。二回読んでも理解したとはとても言えないが、あきらかにこれはすごい思想家によって書かれたものであることは分かる。

 聖徳太子が仏典『勝鬘経』を講じたのは、推古天皇が鞍作鳥に命じて、例の国産初の金銅仏を法興寺に納めたのと同じ年、619年(推古19年)であった。

 続いて太子は『法華経』を講じ、天皇から播磨国に水田百町を賜り、そこからの収益でもって法隆寺を建てたと聞く。

 今あらためて思うことだが、今われわれが読めるわが国の本でもっとも古いのは『古事記』ではないということだ。太子が著した三冊の仏教思想書は『古事記』より古く、また法興寺や法隆寺建造は伊勢神宮より古いということである。

ついつい忘れがちなこの事実の意味するところは何か。民族は他者を受け入れ模倣して初めて己の何たるかに関する自覚と追求を可能にするということなのだろうか。

太子が三義疏を書いたのは当時の漢文をもちいたのであろう。『古事記』が書かれたのは、それからちょうど百年後である。

そして、『古事記』は、縄文・弥生の昔より祖先たちが育んできたいわゆる〈やまとごころ〉を表記するのに漢文を以てして可能であろうかという深刻な問題意識をもって書かれていることを、宣長が発見したのは、それからさらに千年後であった。

こうは言ってはいけないだろうか。聖徳太子という思想家が衝撃を与えたことによって、民族の無意識の深い古層が亀裂から顕れてきたと。





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